ガンジーは何をした人?インド独立の父の生涯


 

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インドの独立を勝ち取ったガンジー

 

マハトマ・ガンジーはインド独立の父として有名です。一般には200年にも及んだイギリスのインド支配から非暴力・不服従の運動を主導してインド人民の指導者となりインドに独立をもたらした人物として知られています。

 

でも、その生涯については、あまり詳しく知られていない人物ではないでしょうか。ガンジーはいつ頃からイギリス支配に立ち向かったのか?その具体的な戦いかたは?

 

今回は偉大なる魂、マハトマ・ガンジーについて解説します。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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ポールバンダル藩王国宰相の子として誕生

ガンジー

 

ガンジーは、本名をモハンダース・カラムチャンド・ガーンディーと言います。よく、マハトマ・ガンジーと紹介されたりしますが、マハトマとは「偉大なる魂」という意味の尊称です。

 

1869年、ガンジーはイギリス領インド帝国のポールバンダル藩王国(はんおうこく)宰相(さいしょう)、カラムチャンド・ガーンディーとその夫人、プタリーバーイーの間に生まれます。

 

子供時代のガンジーは学校の成績も悪く、頑固で融通(ゆうづう)が利かない少年で、ヒンドゥー教で禁じられている肉食を繰り返し、タバコを吸い、タバコ代を工面するために召使いの金を盗むなど不良少年でした。

 

その後、ガンジーはインドの幼児婚の習慣に従い13歳の若さで生涯の妻となるカストゥルパと結婚。18歳で渡英して首都ロンドンのインナー・テンプル法曹院(ほうそういん)に入学し、法廷弁護士になるために勉強を開始します。

 

ロンドンでインド哲学・ヒンドゥー教の精神文化を学ぶガンジー

 

インドにいる頃は不良だったガンジーですが、ロンドンで勉強していた20歳の頃、インドの宗教思想を取り入れた神秘思想結社神智学(しんちがく)協会の会員に出会い、インド哲学とヒンドゥー教の精神文化に関心を持ち始めます。

 

インナー・テンプル法曹院を卒業したガンジーは、1893年、イギリス領南アフリカ連邦で弁護士として開業しました。この南アフリカで、ガンジーは、列車の車掌に人種差別を受け、1等客席に乗るチケットを持っているのに2等客席に移動するように命じられ、抗議したものの受け入れられず強引に列車を下ろされるという体験をしました。

 

インドにいる時にも、ロンドンにいる時にも感じなかった人種差別の壁を体験したガンジーは次第にインド人意識に目覚めてゆきます。

 

南アフリカでもロンドンからの神智学協会とのつながりは続き、ガンジーは、理解の浅かったヒンドゥー教、インド哲学を学び精神的な支柱としていき、イギリス人ではなくインド人としての意識を強めていきました。

 

その後、ガンジーは「新約聖書」の「山上の垂訓(すいくん)」などからイエスの思想にも洞察を深め、「非所有(ひしょゆう)」の生涯を決意。ここから非暴力運動思想を形成していきました。

 

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南アフリカでインド系移民の権利回復運動に従事

 

20世紀初頭、南アフリカは南アフリカ連邦となり、1913年に原住民土地法が制定されるなど人種差別の体系化が進みます。

 

これに対してガンジーはインド系移民の差別に対する権利回復運動を開始し、1908年に初めて逮捕されました。さらに、1913年にはトランスバールの行進を企画して初めて投獄、しかし、不正を追及してはじめて勝利を手にします。

 

その後、ガンジーはダーバン近郊でアーシュラマ共同農園を創設、禁欲、断食、清貧(せいひん)純潔(じゅんけつ)を実践して精神面を強化し、ここでの手ごたえを得てイギリスからの独立を展望し、1915年にはインドへ帰国しました。

 

紅茶一揆(イギリスの紅茶文化と戦車)

 

1914年に第1次世界大戦が起きると、イギリスは将来の自治をインドに約束するかわりに戦争への参戦を求めます。ガンジーはイギリスの言葉を信じてインド人へイギリス植民地軍への志願を呼びかける運動を起こしました。しかし、戦争が終わってもイギリスはインドの自治をほとんど進めませんでした。

 

そればかりか、インド帝国政府はドイツから援助を受けたインド内の過激派を鎮圧するという名目でローラット法を制定。

 

1919年4月13日には、パンジャーブ地方アムリットサルで国産品愛用の要求とローラット法発布に抗議する非武装の市民を、グルカ族、イスラム教徒からなるインド軍部隊が無差別射撃して数百名を殺害するアムリットサル事件が発生します。

 

ガンジーは激しい失望に撃たれ、イギリスに協力する事はインドの独立に繋がらないという思いを強くしました。

 

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国産品愛好と非暴力・不服従運動を展開

 

第1次世界大戦後、ガンジーは独立運動を推進するインド国民会議に加わり、非暴力・不服従運動を展開、世界に知られるようになります。

 

また主要産業をインド人の手に取り戻すために、イギリス製品の綿製品を着用せず、伝統的な手法によるインドの綿製品を着用する事を呼びかけるなど不買運動を開始します。

 

有名な、アメリカライフ紙の表紙を飾った。糸車をまわすガンジーの写真はそれを象徴するものでした。このようなガンジーの態度にイギリスは苛立ちを隠さず、ガンジーは何度も逮捕投獄されます。

 

しかし逮捕され投獄されるたびに、ガンジーの信念はインド人に、そして世界中の差別に苦しみ、差別を憎む人々へ拡散していきました。

 

ガンジーの非暴力・不服従運動は、よく無抵抗主義と混同されますが、そんな生易しいものではありません。棍棒で殴りつけてくるイギリス軍や警察に対し、ガンジーと不服従主義者は、一切逃げず攻撃を受けとめ、怒りに任せて反撃する事もなくガマンし、引きずり出されても引きずり出されても、血だらけで戻ってきて抵抗を続けたのです。

 

それは本当の勇気と忍耐力と、仲間を信じる力がないと出来ない事でした。

 

武力による応酬をおこなわないガンジーの非暴力・不服従運動は世界に大きな波紋を広げ、非難を受けたイギリスは次第に強硬な手段が取れなくなっていきます。

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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