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馬超の死因は急死?それとも蜀に馴染めなかった?死因を考察

2021年3月6日


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馬超の死因(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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馬超の死因:燃え尽きた

馬超をフルボッコする閻行

 

馬超は蜀に入った段階で燃え尽きてしまい、蜀では余生を過ごしていただけの可能性もあります。馬超は最盛期には曹操に

「こいつを生かしておいては、私が安心して葬られる土地はない」とまで言われたほど、謀反気が強い人物でしたが、

 

身長192センチもある彭羕

 

蜀に入ってからは彭羕(ほうようが、

 

劉備に登用されたことを自慢する彭羕

 

「劉備の老いぼれを一緒に殺って独立しようぜ」と愚痴とも本気とも取れない誘いをかけられると不安になり、劉備にチクって彭羕を逮捕させています。馬超は激動の前半生40年で燃え尽き、残りの7年は余生だったかも知れません。

 

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馬超の死因:暗殺

豫譲(よじょう)は暗殺者

 

暗殺も可能性としてはあり得ます。直接的な殺害ではなく、飲食物に毒を入れ少しずつ与えていき病死にみせかけて殺すわけです。馬超の場合、個人の武勇は置いても涼州において異民族の信望を得ているので魏にとっては、厄介な相手であり、その脅威を摘むために毒殺したとも考えられます。

 

馬超にしても涼州から益州に移動しているので食事が合わない、水があわない等は普通で、体調不良をあまり気にしていない間に、気づくのが遅れて手遅れになったわけです。

 

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三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

今回は馬超の死因について色々考えてみました。47歳没は人間50年の三国志の時代では、そこまで早死にでもありませんが、素っ気なく死にましたと記録されると、本当は何かあったのではと考えてしまいますね。

 

参考文献:正史三国志

 

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馬超特集

 

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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