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この記事の目次
馬超の死因:燃え尽きた
馬超は蜀に入った段階で燃え尽きてしまい、蜀では余生を過ごしていただけの可能性もあります。馬超は最盛期には曹操に
「こいつを生かしておいては、私が安心して葬られる土地はない」とまで言われたほど、謀反気が強い人物でしたが、
蜀に入ってからは彭羕が、
「劉備の老いぼれを一緒に殺って独立しようぜ」と愚痴とも本気とも取れない誘いをかけられると不安になり、劉備にチクって彭羕を逮捕させています。馬超は激動の前半生40年で燃え尽き、残りの7年は余生だったかも知れません。
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馬超の死因:暗殺
暗殺も可能性としてはあり得ます。直接的な殺害ではなく、飲食物に毒を入れ少しずつ与えていき病死にみせかけて殺すわけです。馬超の場合、個人の武勇は置いても涼州において異民族の信望を得ているので魏にとっては、厄介な相手であり、その脅威を摘むために毒殺したとも考えられます。
馬超にしても涼州から益州に移動しているので食事が合わない、水があわない等は普通で、体調不良をあまり気にしていない間に、気づくのが遅れて手遅れになったわけです。
三国志ライターkawausoの独り言
今回は馬超の死因について色々考えてみました。47歳没は人間50年の三国志の時代では、そこまで早死にでもありませんが、素っ気なく死にましたと記録されると、本当は何かあったのではと考えてしまいますね。
参考文献:正史三国志
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