酒で身を滅ぼした彭羕とは何者?三国志演義の張飛よりもヒドイ件

2020年5月15日


 

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張飛にお酒はだめだよ

 

三国志演義』で徐州を守っていた張飛は劉備から禁酒令が出ていたにも関わらず、「まあ、ちょっとだけ・・・・・・」という下心から飲んで酔っ払い、同僚や部下に暴力。

 

油断したところを呂布(りょふ)に攻撃されてしまい、徐州(じょしゅう)を追われててしまいました。張飛(ふちょうひ)が酒好きだったという話は物語を面白くするためのフィクション。今回、お話するのは『三国志演義』の張飛のように「お酒」での失敗をした彭羕(ほうよう)についての話です。

 

※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく翻訳しています

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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上から目線男 彭羕(ほうよう)にも

身長192センチもある彭羕

 

彭羕は広漢郡(こうかんぐん)出身であり身長は192センチもある大男でした。「人をぞんざいに扱っていた」と史料に書かれているので、かなりの上から目線の男だったのでしょう。職場にいたら一緒に働きたくないタイプです。

 

陳寿(晋)

 

ただし同郷の秦宓(しんふく)のことだけは尊敬しており、許靖(きょせい
)
に推薦していました。正史『三国志』の著者の陳寿(ちんじゅ
)
によると秦宓は普段はバカのフリをしており、外交官として表に立つとその実力を発揮していたようです。

 

確かにそのような人物だったら尊敬に値します。しかし彭羕も秦宓のプラス面を学ぶことを考えなかったのでしょうか?

 

おそらく「生まれ持った性格だから無理!」と思っていたのでしょう。案の定、この性格が災いしたらしく、人々から悪口を言われます。「悪口」というよりも職務怠慢を報告されたのが正しいのではないかと推測されますけど・・・・・・

 

髠刑を受ける劉備

 

怒った劉璋は彭羕を髠刑(こんけい)にしました。髠刑は髪を切ってしまう刑罰であり、私の記事を何度か読んだことがある読者の皆様は知っていると思いますが、中国では屈辱的な刑罰と言われています。

 

山頂に陣を敷いた馬謖

 

髪を切ることは親からもらった体に傷を付けることなのです。ちなみに、正史『三国志』の著者である陳寿の父も街亭の戦い(がいていのたたかい
)
馬謖(ばしょく)に従軍して敗戦したことから、責任をとらされて、髠刑にされています。

 

龐統・劉備から信頼を得る彭ヨウ

五斗米道(はじめての三国志)

 

建安17年(212年)に劉璋(りゅう しょう
)
五斗米道(ごとべいどう
)
張魯(ちょうろ
)
に対抗するために、劉備(りゅうび)に援助を求めます。益州(えきしゅう
)
を奪いたかった劉備は劉璋の提案に賛成。間もなく劉備と劉璋の間で益州の覇権をめぐって争いが起こりました。これを聞いた彭 羕は早速、劉備のもとに再就職する決意を固めます。

 

法正と劉備

 

この時点で法正(ほうせい)は劉備のもとに投降していました。彼は彭 羕の知り合いです。彭 羕も法正を頼っていけば劉備と面会することは簡単でした。しかし、彭 羕はそれを行わずにある人物のもとに向かいます。

 

的盧に乗る龐統

 

向かったのは龐統(ほうとう)の陣営。ところが、彭羕は龐統と知り合いではありません。ましてや龐統は諸葛亮(しょかつ りょう
)
諸葛瑾(しょかつ きん
)
劉表(りゅう ひょう
)
龐徳公(ほうとくこう)といった著名人と親戚関係。普通だったら話すことも出来ません。

 

株式会社三国志で働く劉備と孔明

 

分かりやすく例えるのなら、無職の人間が会社の役員にアポ無しで会いに行くレベルです・・・・・・

 

龐統の陣に到着した彭 羕でしたが、龐統は来客応対中でした。「待っておくよ」と言って、彭 羕は龐統のベッドに寝転ぶ始末。来客対応が終わると龐統は彭 羕に会いますが彼は「食事を出せ」と頼む始末。彭 羕が人をぞんざいに扱うのは本当のようです。

 

龐統

 

しかし、龐統は人を見抜く才能があったので文句1つ述べずに食事を出しました。それから二晩に渡り龐統と彭羕は語り合いました。その結果、龐統は彭 羕がただ者ではないと見抜きました。その後、彭 羕は法正を通じて劉備と面会。劉備も彭 羕がただ者ではないと気付き、すぐに抜擢しました。

 

酒の席での失敗が命取りになる彭羕

劉備に登用されたことを自慢する彭羕

 

だが、彭 羕は周囲に対しての配慮が足りません。龐統・劉備に登用されたことを自慢するようになります。諸葛亮は彭 羕のことを良く思わなかったので劉備に対して、「彭 羕は野心家だから、大人しく仕えさせるのは難しい」とこっそりと忠告しました。

五虎大将軍の馬超

 

諸葛亮のことを信じていた劉備は、彭 羕を観察した結果、まさしくその通りの人物像だったので左遷することにしました。左遷(させん)された彭 羕は馬超(ばちょう)と一緒に酒を飲みました。馬超は試しに、「あなたは中央で諸葛亮や法正と一緒に活躍する人材だ。どうして左遷されているんだ?」と尋ねました。

馬超の仲間入り

 

酔っぱらった彭 羕は勢いで「劉備はボケたんだよ。話にならない!」と叫びました。それどころか彭 羕は馬超に謀反まで持ちかけました。馬超は流浪の末に劉備に拾ってもらったのに、そんなものに巻き込まれたくありません。急いで劉備に密告。彭 羕は逮捕となりました。

 

考える諸葛亮孔明

 

逮捕された彭羕は獄中で諸葛亮で謝罪の手紙を送りましたが、そんなもので許されるはずがありません。とうとう死罪にされてしまいました。享年37歳。

【次のページに続きます】

 

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晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
何か一言: なるべく面白い記事を書くように頑張ります。

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