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劉備はなかなか人望を得ていた
正史三国志の先主伝には、曹操に追われて退却する劉備に諸葛亮が襄陽を落とすように進言する記述がされていますが、劉備は忍びないと断りました。劉琮は恐れて襄陽の城門を閉めて出て来ませんでしたが、それでも劉琮の左右の家臣や荊州の人々が劉備を慕って城を抜け出し加わっています。
このような人望を見ると、劉備は劉琮ならずとも、多くの人の人望を得ており野戦の指揮官として頼りにされていた一面がうかがえます。
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三国志ライターkawausoの独り言
劉表に疎遠にされ劉備を頼った劉琦は兎も角、蔡瑁シンパにより取り込まれた劉琮は、劉備を毛嫌いするか、ひたすら疎んじているようなイメージです。しかし、実際にはそんな事はなく、劉備の軍事的な能力をある程度頼りにしていた事が正史三国志から明らかになってくるのです。ただし、劉備のいつまでも人の下にはいない性格も同時に理解されており、結果として劉琮は劉備を見限り、降伏して身の保全をはかったのでした。
参考文献:正史三国志
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