劉備はホントは劉琮にも頼りにされていた?

2021年3月21日


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劉琮の思惑(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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劉備はなかなか人望を得ていた

正史三国志_書類

 

正史三国志の先主伝には、曹操に追われて退却する劉備に諸葛亮(しょかつりょう)襄陽(じょうよう)を落とすように進言する記述がされていますが、劉備は忍びないと断りました。劉琮は恐れて襄陽の城門を閉めて出て来ませんでしたが、それでも劉琮の左右の家臣や荊州の人々が劉備を慕って城を抜け出し加わっています。

 

兵士 朝まで三国志

 

このような人望を見ると、劉備は劉琮ならずとも、多くの人の人望を得ており野戦の指揮官として頼りにされていた一面がうかがえます。

 

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三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

劉表に疎遠にされ劉備を頼った劉琦は兎も角、蔡瑁シンパにより取り込まれた劉琮は、劉備を毛嫌いするか、ひたすら疎んじているようなイメージです。しかし、実際にはそんな事はなく、劉備の軍事的な能力をある程度頼りにしていた事が正史三国志から明らかになってくるのです。ただし、劉備のいつまでも人の下にはいない性格も同時に理解されており、結果として劉琮は劉備を見限り、降伏して身の保全をはかったのでした。

 

参考文献:正史三国志

 

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三国志とお金の話

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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