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衛瓘が成都城を抜け出し魏兵を指揮
ところが、反乱計画は固まったものの、魏兵たちには指揮官がいません。そこで登場したのが行鎮西軍司(憲兵)として1000人の兵を率いた衛瓘でした。
当初は鄧艾が独裁的に振る舞っているので更迭するという鍾会の言い分に賛同し、実際に鄧艾を逮捕して囚人護送車で洛陽に送り込んだ衛瓘ですが、その後、鍾会の独立計画を聞いた時には明確に反対し、今ではいつ鍾会に謀殺されるか分からない状態でした。
鍾会に疑われていた衛瓘ですが、重病にかかってもう幾ばくの命もないように装い、鍾会についていたヤブ医者も「衛瓘は近いうちに死ぬ」と診断したので、鍾会は衛瓘を成都城外に出しても何も出来ないと判断して解放しました。
喜び勇んで衛瓘は成都城外に飛び出し、待ち構えていた魏兵に成都城襲撃計画を指揮。魏兵は団結して成都城の城壁をよじ登り、政庁に閉じ込められていた上官を解放し応戦してきた姜維を斬り殺し、おたおたしていた鍾会を切り刻んでしまいます。
胡烈もドサクサの中で自分の兵士に救助されて生還しました。鍾会の乱は胡烈の嘘情報と衛瓘が魏兵を指揮した事で鎮圧されたのです。
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胡烈その後
胡烈はその後、荊州刺史になり、西暦264年に呉が永安城を包囲すると守備側の羅憲の救援要請を請けて出撃し、呉の陸抗等を追い払っています。
西暦265年、司馬炎が晋を建国するとその臣となりますが、西暦270年、秦州刺史だった胡烈は鮮卑族の禿髪樹機能の反乱に遭い戦死しました。
この直前、陳騫が司馬炎に対し「胡烈は勇敢だが思慮分別に欠けるのえ刺史の任は果たせないだろう」と伝えていて、胡烈の訃報に接した司馬炎は陳騫の言葉を用いなかった事を大いに後悔したという事です。
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三国志ライターkawausoの独り言
今回は嘘を流布させて鍾会の反乱を失敗させた胡烈について特集してみました。なんの事もない嘘ですが、胡烈はタイミングを計り、これ以上ない効果を上げて鍾会を討伐する事が出来たのです。
直接の手柄は衛瓘のものですが、胡烈の嘘がなければ、いかに衛瓘でも魏兵をまとめて成都城陥落に向かわせる事は難しかったと思いますね。
参考文献:正史三国志
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