楊欣とはどんな人?個人的な恨みで涼州を失った将軍


 

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楊欣

 

楊欣(ようきん)は、涼州の天水郡の出身で、あの姜維(きょうい)と同郷人でした。

 

楊懐

 

異民族の多い土地で成長したので遊牧民の戦い方に精通していて、三国時代の末期には、涼州金城郡(きんじょうぐん)の太守として鄧艾(とうがい)に従い

同郷の蜀の名将姜維を撃破して、蜀漢の滅亡を見届ける事になりました。

しかし、勇猛で異民族の習慣に慣れている楊欣でさえ異民族の行動原理を完全に把握できず、自らが招いた禍いによって

涼州の戦場で倒れてしまうのです。

 

自称・皇帝
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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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姜維を撃破し蜀漢滅亡を見届ける楊欣

 

楊欣が金城太守であった西暦263年、大将軍司馬昭(しばしょう)鍾会(しょうかい)を大将軍、鄧艾(とうがい)を副将に蜀征討を開始しました。

鄧艾は命令で楊欣を甘松に移動させ、姜維は甘松(かんしょう)沓中(とうちゅう)で鄧艾の軍勢と戦います。

 

しかし、姜維の援軍要請にも関わらず、成都では宦官黄浩(こうこう)が上奏を握りつぶし初動は全く遅れ、鍾会が駱谷(らくこく)に鄧艾が沓中に入ったと聞いて

慌てふためき、ようやく、廖化(りょうか)張翼(ちょうよく)董厥(とうけつ)を姜維の援軍に差し向けます。

兵士 朝まで三国志

 

姜維は鍾会が漢中に入った事を聞いて驚き、漢中に向けて撤退を開始。それを見てとった楊欣は姜維を追撃し彊川口で撃破しました。

ですが姜維軍は全滅には至らず、姜維は巧みに軍を纏め雍州兵が塞いでいる道を迂回(うかい)孔函谷(こうかんこく)から北道に入り雍州兵の背後に出ます。

そして、情報を聞いて姜維を捕捉しようとする諸葛緒(しょかつしょ)を一日差で出し抜いて躱しなんとか剣閣に立て籠もる事に成功しました。

降伏する劉禅

 

鍾会は剣閣の姜維に足止めされますが、鄧艾は剣閣をスルーして陰平から断崖絶壁(だんがいぜっぺき)を転げ下り、苦難の行軍をして迂回路を探し出し

綿竹で諸葛瞻(しょかつせん)を撃破。恐れた劉禅を降伏させる事に成功します。

 

蜀を攻める楊欣

 

楊欣は、蜀漢の滅亡を目の当たりにした武将になりました。

 

涼州の動乱

 

蜀漢の滅亡は涼州に展開する(きょう)()のような異民族について新たな動乱の幕開けでした。

それまで蜀の勢力圏で力を割けなかったものが、これが滅亡した事で西晋が大々的に涼州の情勢に介入するようになります。

元々、この辺りはシルクロードの玄関口であり、前漢の武帝時代から異民族の平定は重要な国家事業でした。

三国志を統一した司馬炎

 

西暦269年、西晋は雍州隴右(ろうう)の五郡、及び涼州金城郡、梁州陰平郡の7郡をまとめ新しく秦州(しんしゅう)を設置します。

そして、異民族討伐のプロとして評判の高い、胡烈(これつ)を秦州の刺史に任命し統治を強化しようとしたのです。

鮮卑大人、育延

 

さらに、西晋は傅玄(ふげん)の上奏に従い高平川に一郡を設置し、入植を進めると同時に北に道路を通そうとします。

ところがこの動きに羌胡は独立を失うと考え、北胡諸部族を糾合した鮮卑族(せんぴぞく)禿髪樹機能(とくとうじゅきのう)が反乱を起こしたのです。

 

鎮圧の為に、涼州刺史の蘇愉が武威西方の金山で樹機能を迎撃しますが勝てず戦死。

勢いに乗る樹機能は新設された秦州に圧力を掛け涼州の連絡を分離しようとします。

騎射の術に長けた騎馬兵士

 

危機感を抱いた西晋は、秦州刺史、胡烈を出撃させ都督(ととく)司馬亮(しばりょう)を支援させました。

胡烈は、西へ向かおうと高平川を北に進み武威に向かいますが、その途中に白虎文(はっこぶん)の率いる敵の大軍と遭遇。

奮戦する胡烈でしたが、後続軍を率いた劉旂(りゅうき)が白虎文に怯えて進軍せず、結果、胡烈は敵中に孤立し敗死したのです。

敗北する馬岱

 

こうして、一年の間に二人の刺史を失った西晋の威信は失墜し西域経営は危機に瀕しますが、

司馬亮の後任で都督になった汝陰王司馬俊(じょいんおうしばしゅん)は幸運にも名将でした。

彼は功を焦ろうとはせず、3年間兵士と共に生産活動に従事。自らも汗を流すなどして兵士の心を掴みました。

かくして精強になった西晋軍は姜胡の反乱軍を次々と鎮圧していき涼州を解放します。

三国志のモブ 反乱

 

その後も樹機能は何度も反乱を起こしますが、西暦277年司馬俊は、涼州、秦州、雍州の三州の連合軍を率いて樹機能討伐を開始。

勢いに恐れた樹機能は、二十部を率いて西晋の軍門に降りました。ところが、涼州の平穏は束の間に過ぎませんでした。

平和を破ったのは外ならぬ、涼州刺史に任命された楊欣だったのです。

 

北伐の真実に迫る

北伐

 

敦煌太守を巡りトラブルを起こす楊欣

洛陽城

 

楊欣は西暦275年に涼州砂史(りょうしゅうしし)に任命されますが、すでにトラブルを抱えていました。

272年の10月、敦煌(とんこう)の太守である尹璩(いんきょ)が病死、そこで楊欣は、敦煌令の梁澄(りょうちょう)を太守とするように上奏します。

ところが敦煌の功曹であった宋質(そうしつ)という男がこれに従わず、梁澄を廃して義郎の令狐豐(れいこほう)を太守にするように上奏したのです。

兵士を率いる事を妄想する婁圭

 

面目を潰された楊欣は激怒し敦煌に兵を出しますが、宋質に敗北してしまいます。

しかし、その後数年で令狐豐は病死、敦煌では令狐宏(れいここう)を代行太守に任命しました。

自分を無視されまくり激怒した楊欣は、276年、再度兵を発して敦煌を攻め令狐宏を打ち破って斬首し首を洛陽に送ってしまったのです。

 

羌胡の信頼を失う楊欣

 

ところが、この振る舞いにより楊欣は羌胡の信頼を一気に失ってしまいます。

それは、どうしてなのでしょうか?史書には書いていませんが、同時代の名将である馬隆(ばりゅう)は、

「楊欣は羌胡の和を得ていないので必ず敗れる」と言っています。

こちらを踏まえて考えてみると、以下の事が推測できます。

白馬寺(城)

 

敦煌で令孤氏というのは、新の王莽(おうもう)の時代から土着する名族でした。

元々、義郎として洛陽にいた令狐豐を呼び戻してまで太守にしたのは、そうでなくては敦煌が治まらない事情があったのでしょう。

上司である楊欣の意向を無視して太守を決めるなど、宋質は組織を(わきま)えていない感じがしますが敦煌には敦煌の常識というものがあったのです。

実際に、敦煌の上奏通りに太守が決まっているので、西晋王朝自体は敦煌の自治を認めていたと考えられます。

漢帝国の宿敵で匈奴の名君(匈奴族)

 

それを自分の命令を無視されたという理由で怒り、強引に武力で問題を解決した楊欣は異民族から見れば、

漢族の倫理を振り回す余所者(よそもの)であり信じる事が出来ない人物として格下げされたのでした。

 

孤立した楊欣は若羅拔能に敗れ死ぬ

戦死 霊柩車 槥

 

翌々年、西暦278年、六月、河西の鮮卑、若羅拔能(じゃくらはつのう)が武威西方の丹嶺(たんれい)で蜂起します。

それを討伐する為に楊欣は出陣しますが兵は敗れ、楊欣は殺害されました。

呆気(あっけ)ない最期ですが、ここにはやはり、統括していた羌や胡の騎馬兵に楊欣の命令に従う気がなかったのでしょう。

涼州刺史の死により、一度は服属していた禿頭樹機能もまた離反。西晋は再び涼州の支配権を失ってしまうのです。

楊欣の失敗は西晋にとって、あまりにも大きい代償になりました。

 

三国志ライターkawausoの独り言

 

禿髪樹機能等、羌胡の異民族に奪還された涼州は馬隆によって取り返されます。

彼は、異民族討伐のエキスパート中のエキスパートであり、蜀漢滅亡後に魏に伝来した諸葛孔明(しょかつこうめい)の用兵の一つ対騎兵戦術を伝承した人物でした。

馬隆は強力な弩と弓を引ける剛力の精兵3000人を選抜し大量の盾つきの車を用意、八陣図に禿髪樹機能を誘い込んで撃破し、

涼州の支配を取り戻したのです。

 

参考文献:正史三国志魏志鄧艾伝 資治通鑑(しじつがん) 晋書馬隆伝

 

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