古来より流言は成功すると敵の中に疑心暗鬼を産み出す事が可能な計略でした。しかし、流言が確実に成功する心理状態というのは、なかなか成立しにくく大抵の流言はデマとして片付けられて成功例は少ないものです。
胡烈は、そんな成功しにくい流言をジャストタイミングで炸裂させ鍾会を破滅に追い込んだ稀な人物でした。
この記事の目次
胡烈をザックリと解説
では、最初に胡烈についてザックリと解説します。
1 | 雍州安定郡臨涇県の人で父は名将胡遵。 |
2 | 西暦257年諸葛誕が反乱、胡烈は討伐軍に参加、呉の朱異軍の兵糧を燃やし退却させた |
3 | 西暦263年征蜀護軍胡烈は鍾会軍の先鋒となり陽安関を襲撃し傅僉を討ち関を占領 |
4 | 鍾会の策謀で捕らえられ成都の政庁に監禁 |
5 | 胡烈は当番兵に鍾会が魏兵を棒で殴って殺し穴埋めようとしていると嘘を吹きこむ |
6 | 嘘を信じた魏兵を衛瓘が指揮して成都城壁を乗り越え鍾会を殺害 |
7 | 西暦270年、秦州刺史胡烈は鮮卑の禿髪樹機能の反乱に遭い戦死。 |
以上がざっくりした胡烈の履歴です。ここからは、もう少し詳しく胡烈について解説しましょう。
関連記事:姜維は五丈原で何をしたのか?諸葛亮死す!愛弟子の姜維が取った行動とは?
関連記事:姜維はどうして鍾会を同志に選んだの?
武門の家に生まれた胡烈
胡烈は雍州安定郡臨涇県の人で父は名将胡遵、兄の胡奮も公孫淵討伐や呉討伐で名を挙げた武人の家系に生まれます。
西暦257年諸葛誕が反乱を起こした時、胡烈は討伐軍に参加し、抜け道を通って呉の朱異軍の兵糧を燃やし退却させる功績を立てました。
そして、西暦263年征蜀護軍の地位にあった胡烈は鍾会軍の先鋒となり陽安関を襲撃し傅僉を討ち取って陽安関を占領します。
この後、姜維が剣閣に立て籠もり鍾会軍は膠着状態に陥りますが、別動隊の鄧艾が剣閣を迂回して険しい崖を下りて
成都近くの綿竹まで到達諸葛孔明の子の諸葛瞻を撃破して戦死させ、観念した劉禅は降伏を決意しここに蜀漢が滅亡します。
関連記事:諸葛瞻の意思はどこにあったのか?彼の行動をもう一度振り返る
関連記事:諸葛瞻の評価は如何ほどでありますか?黄皓派だった諸葛亮の息子
鍾会により捕らえられ監禁される
成都にいた胡烈ですが、総大将の鍾会は蜀を拠点に独立しようとする野心を抱き、鄧艾を命令違反の罪で弾劾して成都から追放。兵権を奪い取り、降伏した姜維と密かに手を組んで反乱の計画を立てます。
その上で鍾会は確実に謀反に反対しそうな魏の将軍達をピックアップし、成都の廟堂に集めてから一斉に捕縛しました。
この中に胡烈も含まれていたのです。
関連記事:衛瓘とはどんな人?鄧艾と鍾会を始末した鍾会の乱の受益者
関連記事:「劉備くらいにはなれる」と豪語した鍾会、本当に身の程知らずの野望だったの?
鍾会が魏兵を皆殺すと嘘を流す
官庁の中に幽閉された胡烈ですが、鍾会は呑気にも、それぞれの部隊長についている当番兵に食事を差し入れさせて面会を許していました。最初に胡烈の部下だった丘建の兵士が胡烈に食糧を差し入れに来ます。これを聞いた胡烈の当番兵も胡烈に食糧を差しいれに来ましたが、胡烈は当番兵に
「丘建が極秘に教えてくれたのだが、鍾会は大穴を掘って、白棒を数千本用意し、成都城外にいる魏兵を順番に棒で殴り殺して穴に捨てるつもりらしい」
と嘘の情報を流しました。
本来なら、この程度の流言が本気にされるはずはありません。しかし、当時、魏の兵士は成都城に入る事を禁止され郊外でテント生活をしていました。
おまけに、彼らの直属の部隊長も姿を見せなくなり、何が起きているのか一切分からない状態だったのです。そして、きわめつけに、鍾会は厳しいだけで兵士たちに全く慕われていませんでした。
確かな情報が全くない中で、胡烈が流した流言は魏の兵士には真実として伝わり、あっと言う間に広がっていきます。
関連記事:鄧艾とはどんな人?鍾会に陥れられ衛瓘の指図で殺された鍾会の乱の犠牲者
関連記事:姜維とはどんな人?鍾会の乱を利用し蜀復興を目論んだ忠臣
胡烈の流言が魏兵に拡大する
不安要素が折り重なり、胡烈の当番兵から鍾会が自分達を撲殺して穴埋しようとしていると聞いた魏兵たちは、「あの鍾会ならばやりかねない」と即断し、それぞれが上官に食事を差し入れる間に、密かに情報交換をし反乱の準備を整えていました。
もちろん鍾会の下にも、
「胡烈や丘建の兵士がよからぬ企みをしているので、今のうちに将軍達を殺しましょう」と幕僚からの進言がありましたが鍾会は、ちゅうちょし明確な返事をしません。ここで優柔不断な態度を見せた事で、鍾会の破滅は決定的になります。
【次のページに続きます】