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蜀を攻めるには?公孫述の討伐
後漢初期の混乱の時「公孫述」が蜀の地で独立を宣言して後漢に抵抗しました。後漢の光武帝は公孫述を討伐すべく、荊州から長江を上り蜀を攻略しようと試みましたが、公孫述はここに水上要塞を作り後漢軍を撃退します。
後漢の将軍岑彭は決死の覚悟で要塞の浮き橋を沈めようと決死隊を募り、火を放ちます。運よく強風が吹き荒れ、浮き橋は焼失し、水上要塞を撃破することに成功。そしてついには成都を陥落させたのです。
蜀を攻めるには?桓温の成漢攻め
三国志の時代より100年ほど後の「五胡十六国時代」、蜀の地には「成漢」(後蜀)という国がありました。対立する「東晋」は政治が混乱していた成漢の征伐を開始します。
兵を率いるのは名将「桓温」で、長江を遡り成漢を攻撃することを計画しました。桓温はスピードを重視し、成漢の軍備が整う前に長江を遡ることに成功し、首都の成都に到達。成漢を滅亡させました。
三国志ライターみうらの独り言
蜀攻めの歴史を見てみると、ほとんどが山を越えたり、川を無理やり遡ったり、かなり無理な戦になっていることがわかりますね。これが「天然の要害」といわれる所以なのでしょうね。ちなみに今ではその要害の数々は観光名所になっているようで、是非行ってみて険しさを体験したいものです。
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