蜀にも水軍が存在した!大都督は曹丕にも信頼されたあの人だった?

2021年9月25日


 

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周瑜

 

三国志における水軍といえば、周瑜(しゅうゆ)が率いた呉の水軍が有名で、次には蔡瑁(さいぼう)張允(ちょういん)のような荊州の人々が母体の魏の水軍が有名です。でも、蜀の水軍というとピンとくるイメージがありませんよね?

 

黄権

 

しかし、実は蜀にも水軍があり、その責任者は黄権(こうけん)だったようなのです。今回は、知られざる蜀の水軍について解説しましょう。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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蜀への侵攻ルートは登山だけじゃない

 

三国志演義では諸葛亮の北伐のイメージが強いので、蜀は秦嶺山脈(しんれいさんみゃく)を越えないと入れない隔絶(かくぜつ)した場所のように見えます。しかし、実際には長江が通じていて水運を利用すれば、それほど苦労する事なく益州盆地に到達する事が出来ました。

 

司馬懿

 

え?じゃあ、なんで司馬懿(しばい)はわざわざ面倒な秦嶺山脈越えを選んだのか?ですか。そりゃあ!司馬懿が中華一の登山家だったから…ではなく、長江流域が孫呉の支配下にあったからです。もし、長江流域を魏が支配していれば、毎年のように魏は遠征軍を送り込んでどこかの時点で蜀は滅亡していたでしょう。

 

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蜀の水軍は強かった

前人未到のルートで蜀にたどり着いた鄧艾(トウ艾)

 

蜀の水軍については、その全貌が明らかではありませんが、造船技術は存在していた事が、正史三国志鄧艾伝(とうがいでん)の記録から分かります。

 

そこでは、鄧艾が司馬昭(しばしょう)に上書して

 

蜀の兵士

 

隴右(ろうう)の兵二万人と蜀兵二万人を留めて、塩を炊いて鉄を造って軍事と農業の需要に応え、同時に舟船を建造して長江の流れに(したが)う事に予め備えておき、その後で孫呉に使者を派遣して利害を説けば、兵船を使わずとも国が定まるでしょう”と書いている事から推測できます。

 

鄧艾が遠征に本国から造船技術者を率いてきたとは考えにくく、これは、蜀の技術者を使って、製塩し冶金して鉄を造り、さらに造船して呉討伐の準備しようという意味だと考えられます。

 

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北伐の真実に迫る

北伐

 

 

蔣琬の北伐

蔣琬(しょうえん)

 

もうひとつ、頓挫(とんざ)はしたものの、長江を下りて呉と共同で魏を攻めようとした蔣琬(しょうえん)のプランも忘れてはいけないでしょう。

 

正史三国志、蔣琬伝では、

 

”蔣琬は、これまで諸葛亮がしばしば潼関(どうかん)以西をうかがいながら、悪路に苦戦し補給に難儀して遂に勝てなかったので、長江の流れに乗じて東下するが最上だと考え、かくして蔣琬は、多数の舟船を作、漢水・沔水(べんすい)から魏興(ぎこう)上庸(じょうよう)を襲撃しようとした”

 

このようにあり、蔣琬が多数の船を建造し、長江を下って魏を攻撃しようとした事実が分かります。

 

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蜀の水軍提督 黄権

キレる劉備になだめる黄権

 

では、蜀において水軍提督だったのは誰でしょうか?どうもそれは黄権ではないかと思います。それというのも、正史三国志黄権伝には、劉備が孫呉を攻める事を決意した時に黄権が

 

”呉人は水に慣れ勇敢に戦い、また水軍とは流れに従って動くので進むのは容易ですが、退くのは難しいものです。どうか臣を先鋒として呉を討伐させて頂きたい。陛下は後から進むのが望ましいでしょう”

 

このように進言しているからです。発言を見る限り、黄権は水上での戦いに詳しく、逆に劉備はそうではない事が分かります。

 

しかし劉備は、黄権の(いさ)めを聞かず、黄権に対しては魏に備えさせ、水軍の素人である自身は、より呉の領内深く侵攻していきました。

 

蜀軍を誘い込んで一網打尽にする計略を考えつく陸遜

 

こうして、補給線が伸びきった所で、陸遜の火攻めに遭遇し、屯営をことごとく焼き捨てられて、大敗する事になったのです。

 

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夷陵の戦い

 

地味だけど重要な水軍

三国時代の船 蒙衝

 

三国志の時代の水軍は、もちろん大砲を装備しているわけでもなく、外装が鉄でもありません。その為、陸地の敵にダメージを与える事が出来るわけでもなく船同士の戦いがメインでしたし、それがない時は輸送船団と同じでした。

 

大船団を率いて呉を攻める王濬(おうしゅん)

 

しかし、陸上で最速の移動手段が馬しかない時代には、平面の湖水を大量の物資と兵員を積んで移動できる水軍は、活用次第では戦局に大きな衝撃を与える事が出来ました。

 

三国志の時代でも、大型の船舶には数千人の兵員が乗れたそうですから、その兵員が無事に上陸して陸地の戦闘に参加できれば、やはり敵には脅威だったのでしょう。

 

黄権は船に慣れていて、水軍の知識もあり劉備がその助言を聞いていれば、夷陵の戦いも、あそこまで無残な敗戦にならなかったかも知れません。劉備は、水軍提督、黄権の活用には失敗してしまったのです。

 

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三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

今回は蜀の水軍について解説してみました。三国志時代の水軍については有名な周瑜であっても、正史には水軍を率いた事は記されていても、水軍提督という肩書は見当たりません。

 

これは当時の水軍が、そこまで専門性の高い軍種ではなく陸軍に服属する形で存在していた事に関係しているのかも知れず、独立していないので、その功績が殊更に書かれる事がなかったのではないかと思います。しかし、事実上は水軍運用に優れた手腕を見せた人物はいて、それが周瑜や黄権のような人物だったのでしょう。

 

正史三国志:黄権伝

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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