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父を諫めた諸葛竦
諸葛恪は問題が多い父だったようで、次男の諸葛竦も度々父を諫めていたそうです。もちろん、誇り高く自信家の諸葛恪が息子の諫めなど聴くはずもなく、諸葛竦はいつか大きな禍いが降りかかる事を恐れていました。
そして、その予感は的中、諸葛恪は孫峻のクーデターに倒れ、それを知った諸葛竦は、母を車に乗せて逃走します。おそらく魏に投降するつもりだったのでしょう。
孫峻は、騎督劉承を派遣し諸葛竦を白都で斬殺します。諸葛恪の末子の諸葛建は長江を渡る事ができ魏に降ろうとしますが、行くこと数十里で追撃してきた呉兵に逮捕されました。こうして、諸葛恪の三族は悉く滅ぼされてしまう事になります。
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家庭が不和だと事業も傾く
諸葛一族では、諸葛瑾にしろ諸葛亮にしろ、家庭内の事ではトラブルが起きていない印象です。諸葛瑾は実子がいない弟孔明に次男の喬を養子に出すほどでしたし、孔明も喬を可愛がり我が子と同様に遇しています。家庭を円満にしているから諸葛瑾も諸葛亮も仕事に全力を傾注でき、結果として大きな成果を出す事が出来たのでしょう。
逆に諸葛恪は嫡男を毒殺し、次男には諫言されるなど家庭的に良い父親とは思えない行動をしていて、家庭内に幸福なイメージはありません。結局、一事が万事であり、家庭の事も治められない諸葛恪の政治は中途半端で他人の恨みを買うものにならざるを得ず、自らをも滅ぼしてしまったのです。
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三国志ライターkawausoの独り言
諸葛恪には優れた点もありましたが、能力的にムラがありすぎて呉の政治を任せられる器ではなかったのでしょう。当人がそれを自覚していれば、性格に問題はあるが諸芸に秀でた俊才で人生を終えていたかも知れないのに、無駄に高い才能のせいで一族を滅亡に追い込んでしまいました。
参考文献:正史三国志
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