諸葛恪の家庭の闇が深すぎて震える。息子を毒殺した諸葛恪の因果

2021年8月14日


 

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諸葛瑾と幼い頃の孔明

 

全体としては堅実で真面目な人が多いイメージの三国志の時代の諸葛(しょかつ)一族。

 

孫権の遺言で丞相に就任する諸葛恪

 

その中でも異彩を放つのは諸葛瑾(しょかつきん)の子で天才を謳われた諸葛恪(しょかつかく)です。幼帝である孫亮(そんりょう)の後見として独裁体制を敷き、孫峻に殺害される運命を辿る諸葛恪ですが、彼の家庭に目を向けてみると悲惨な運命を暗示するような闇があるのです。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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諸葛恪の家庭の闇ザックリ

人形劇三国志の語り手風 kawausoさん、おとぼけさん

 

では、最初に諸葛恪の家庭の闇についてザックリ解説します。

 

諸葛恪は孫覇派に深く関与し孫権に処罰された嫡男の諸葛綽(しょかつしゃく)

再教育するよう孫権に命じられたが、これを毒殺した。

諸葛恪は孫和派(そんかは)のように見られているが、諸葛恪を推挙したのは

孫峻(そんしゅん)のような孫覇派で孫魯班(そんろはん)との関係が強い人物であり、諸葛恪も孫覇派ないしは、二股をかけて曖昧な対応をしていた可能性がある。

その後、孫権は孫和派も孫覇派も粛正し、末子の孫亮を立てたので

諸葛恪は二宮の変から足を洗おうと孫覇派に固執する諸葛綽を毒殺する事で幕引きをしたのではないか?

諸葛恪の次男の諸葛竦(しょかつしょう)は、父を度々諫言(かんげん)したが聞き入れないので

後難を恐れていたが、孫峻のクーデターにより、それが現実になる。

呉の身内から反感を買う_諸葛恪

 

以上がザックリとした諸葛恪の家庭の闇についての解説です。ここからは、もう少し詳しく記事についてみてみましょう。

 

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嫡男を毒殺した諸葛恪

 

諸葛恪には、諸葛綽という嫡男がいました。二宮の変の頃に地位は騎都尉(きとい)でしたが、孫覇派に深く関与したという理由で孫権に捕らえられ諸葛恪に引き渡されます。孫権は諸葛恪の嫡男である事を慮ったのか、再教育するようにと諸葛恪に申しつけましたが、諸葛恪は諸葛綽に毒酒を飲ませて殺害したと伝えられます。

 

病に倒れる始皇帝

 

我が子を毒殺するようなケースは、他の諸葛一族では見た事がありません。どうして諸葛恪は嫡男を毒殺してしまったのでしょうか?

 

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二宮の変

 

諸葛恪も孫覇派だった?

孫権に煽られて憤死する陸遜

 

正史三国志の諸葛恪伝では、二宮の変前後5年間の記述がありません。そして、記述は陸遜が憤死した245年に飛び、諸葛恪は陸遜の後任として大将軍となり荊州を統治する事になりました。

 

孫和

 

もちろん、この人事に許可を出したのは孫権ですが、もし諸葛恪が陸遜同様に孫和派であったなら孫権がこの人事を承認するとは思えません。

 

孫峻

 

また、孫権が皇太子に孫亮を立てた後の後見人として諸葛恪を推したのは孫峻ですが、彼は孫権が孫和を許そうとした時に、孫弘や孫魯班と共に讒言して阻止しています。この繋がりから考えて諸葛恪が孫覇派に近かった可能性は高いと思います。

 

孫権に書簡を使って報告する呂壹(呂壱)

 

もう1つ、諸葛恪は曁艶(きえん)呂壹(りょいち)のような酷吏に対する批判の言葉を口にしていません。こうして考えると諸葛恪は、状況次第でどちらにも与するコウモリ野郎か、あるいは孫権の意向に従っている日和見主義だったと考えられます。

 

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宦官

 

 

権力の座を掴むのに諸葛綽が邪魔だった

諸葛恪

 

しかし、当の孫権は孫峻が勧めるほどには諸葛恪を買っていませんでした。

 

呂岱(りょたい)

 

大権をゆだねるとは言っても死刑のような重要案件では事後報告を義務付けていて、また、武昌(ぶしょう)管区の軍権については呂岱(りょはん)と折半ですし、江陵には朱然(しゅぜん)を置いて諸葛恪のお目付け役としています。

 

軍もしっかりと把握できていない諸葛恪

 

このように孫権に完全に信用されていると言い難い諸葛恪に取って、孫覇派として頑なに意志を曲げない諸葛綽は、自分の立場を危うくする存在だったかも知れません。

 

孫亮を後継者として指名する孫権

 

すでに孫権は、孫和派も孫覇派も見限り、末子の孫亮を立てて後継者にしていましたし、身内に頑なな孫覇派がいては自分の立場が危うくなると諸葛恪が考えたのでしょう。

 

諸葛恪

 

もちろん脅したりすかしたりはしたのでしょうが、それでも諸葛綽が考えを改めないと悟った諸葛恪は己の野心の為に諸葛綽に毒殺したと考えられます。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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