悲運
因みに公孫淵の兄、公孫晃は弟のことをよく理解していたようで、弟が何れ魏に背くであろうことも想定していました。このため征伐軍を出して欲しいと度々上奏文を出すもこれは取り上げられず、そして兄の想像通りに弟は魏に反旗を翻し、司馬懿によって鎮圧。
兄は弟に連座し、一族は誅殺されました。正に悲運と言えましょう。ここに公孫淵の一族は滅んだのです。
日本との繋がり
さて公孫淵に関して、実は日本との繋がりがちょっとある人物です。というのも公孫淵は近隣諸国からの貢物を自分のものにしていたようで、公孫淵が取り除かれてからはこれらがきちんと魏に収められるようになりました。
この一つに倭国があります。そして後にかの卑弥呼が魏に使者を出すことになるので、実は司馬懿がいなければこの関係はなかった可能性もあるのです。
そう思うとちょっと司馬懿に感謝しないとなぁ、なんて思う筆者でした。こういう繋がりって面白いですよね!
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三国志ライター センのひとりごと
今回は司馬懿の、というよりも公孫淵と日本との繋がりをご紹介させて頂きました。こういう歴史の中での繋がりは、細いものも多いですがとても面白いと思います。
もしこれがなかったら時代がどう変わっていたか……そう考えるのもまた醍醐味。本日も三国志沼より、お届けいたしました……ちゃぷん。
参考文献:晋書武帝記 魏書三少帝紀
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