以前、『はじめての三国志』では、三国志の時代の鎧について特集しましたが、今回、中国の鎧の変遷について知りたいという読者ちゃんのリクエストがありましたので、遥か殷の時代から三国時代を経て明の時代までの中国の鎧の変遷について見てみようと思います。
殷 動物の皮
中国最古の鎧は殷の時代に出現し動物の皮を加工したり、皮の上に亀の甲羅を貼り付けたものでした。
動物の皮は、煮込んだり根気強くなめす事で次第に柔らかくなるので冶金技術が発達していない古代には鎧の素材として最適だったのです。当時は動物の皮で盾や兜、胴回りを覆う鎧を作成していました。
また、青銅の兜も殷の時代には登場しています。殷は青銅器文明であり、溶けた青銅を鋳型に流し込んで作成していましたが、兜は鎧や盾と違い、複雑な金属加工が必要ないので鎧や盾に先んじて金属製品が登場したようです。
それから青銅と言っていますが、出来たばかりの青銅器は新品の十円玉のように黄金色に輝いているので、青銅の兜は富と権力の象徴として随分目立った事だろうと思います。
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春秋時代 皮甲
殷を倒して建国された周王朝が異民族の侵入により都を遷都して衰えると各地の諸侯が天下の覇権を争う春秋戦国時代の幕が開きます。
長い戦乱の中で鎧も改良され、春秋時代には革製の甲冑を強化した皮甲が製造されました。皮甲の素材は牛革でしたが、最高級の素材として丈夫なサイ革で造られたものもあります。
この時代の皮甲は高い襟を持つものが存在しますが、これは戦車戦の時、敵兵の戈が首に引っ掛けられて戦車から落されないようにする工夫でした。また、この時代には皮の防水と腐食を防ぐ目的で表面に漆が塗られるようになり鎧の強度がアップしています。
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戦国 甲片
春秋末期から戦国時代の初期になると、大きくて身動きが制限される皮甲から漆を塗って強度を高めた皮革の札「甲片」が登場します。
甲片を複数革紐で綴った鎧が登場した背景には、当時の戦争が戦車同士の戦いから歩兵を中心とした集団戦に変化した事があります。それまで戦車戦であまり動かなくても良かったものが歩兵戦になり、ある程度伸縮する甲片の鎧の需要が高まったのです。
こうして、歩兵戦が主流となった頃、武器に鉄が普及し革紐の甲片は断ち切られ役立たなくなる事が増えました。そこで革紐ではなく鋲で甲片を留めた鎧が登場し、軽くて動きやすいとして金属製の鎧が登場した後も重宝されるようになりました。
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前漢 鉄鎧
秦が倒れた後に建国された前漢王朝でも、しばらく鎧は皮鎧のままでした。
しかし、遊牧民族の匈奴との激しい騎馬戦が盛んになると、縦横無尽に矢を放ってくる匈奴に対抗すべく鎧は徐々に首回りから大腿部まで広範囲を覆うようになります。
特に披膊と呼ばれる肩当てはコートのように、上腕から胸、肘近くまで保護する鉄製の鎧で兵士にとって欠かせないものになりました。
前漢の武帝の時代になると鉄札を綴って出来た鎧が主流になり、貴族や高官は2000枚の鉄札を綴った鎧を着て、鎧や兜にまで細かい装飾を施こし栄華と権力を誇示するようになります。
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三国 筒袖鎧と裲襠甲
三国時代から南北朝の初期になると、鉄鎧である筒袖鎧が登場します。この鎧の最大の特徴は、それまで平坦に綴られていた鉄の小札を鱗状に重ねて綴るようになった事でした。
南北朝の初期の筒袖鎧は670㎏の威力を持つ機械仕掛けの強弩の矢でも貫通できない頑丈さを持っていました。同時にこの頃には、兜も鉄の小札で綴ったカバーがつくようになり、首やうなじのような太い血管が通る場所を保護しています。
また、筒袖鎧がその名前の通り袖がついて上腕部や腋の下も鉄の小札で覆われているのが画期的でした。腋の下は心臓に近く、ここを剣や槍で突き刺されると致命傷になるのでカバーして死傷率を下げたわけです。
三国志の時代には騎兵の鎧も独自の進歩を遂げ、裲襠甲と呼ばれる鎧が登場しました。これは、鉄の小札で覆われた胸甲と背甲で出来ていて二枚を腰の革製ベルトで結んで使用しました。この裲襠甲には筒袖鎧と違い袖の部分がありませんが、これは馬上で槍や矛を振るう騎兵の動きを優先した為でした。
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唐 明光鎧・紙甲
世界帝国となった唐の時代には東西文化の交流もあり、鎧の素材も革や鉄だけでなく、フェルトや木綿などの素材が使われるようになります。唐の時代には儀式用の鎧も含めて13種類の鎧があり、用途で区別されたそうですが、その中でも特徴的な鎧を2つ紹介しましょう。
この時代に特に防御力が高かったのが明光鎧です。明光鎧の特徴は胸部と腹部、さらに背中の中心部につけられた護心鏡と呼ばれる楕円形の鉄のプレートで、この護心鏡が鏡のように光を反射する事から明光鎧という名前がつけられました。
ちなみに平安時代の四天王像、増長天、持国天、多聞天、広目天の身につけている鎧は唐の明光鎧です。もうひとつ、唐の時代には紙で作られた鎧も誕生していました。その名も紙甲と呼ばれ、紙に絹や木綿の布を合わせて作られ南方地域で歩兵の鎧として圧倒的な軽さから船上でも使われています。
紙と言うとペラペラで頼りなさそうですが、実際には厚紙を木綿で裏打ちしたものを固く縫って強度を増しているので矢や種子島銃の弾は阻止できました。考えてみれば、防弾チョッキだってアラミド繊維の布を何重にも張り合わせたものですから布や紙だって工夫次第では鎧になるんですね。
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