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三国志番外編!中国の鎧の歴史を具体的に解説してみたら分かった事

2021年8月31日


 

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忙しい方にざっくり解答03 kawausoさん

 

以前、『はじめての三国志』では、三国志の時代の鎧について特集しましたが、今回、中国の鎧の変遷について知りたいという読者ちゃんのリクエストがありましたので、遥か殷の時代から三国時代を経て明の時代までの中国の鎧の変遷について見てみようと思います。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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殷 動物の皮

紂王

 

中国最古の鎧は(いん)の時代に出現し動物の皮を加工したり、皮の上に亀の甲羅を貼り付けたものでした。

 

君主論24 曹操

 

動物の皮は、煮込んだり根気強くなめす事で次第に柔らかくなるので冶金技術が発達していない古代には鎧の素材として最適だったのです。当時は動物の皮で盾や兜、胴回りを覆う鎧を作成していました。

 

また、青銅の(かぶと)も殷の時代には登場しています。殷は青銅器文明であり、溶けた青銅を鋳型に流し込んで作成していましたが、兜は鎧や盾と違い、複雑な金属加工が必要ないので鎧や盾に先んじて金属製品が登場したようです。

 

それから青銅と言っていますが、出来たばかりの青銅器は新品の十円玉のように黄金色に輝いているので、青銅の兜は富と権力の象徴として随分目立った事だろうと思います。

 

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春秋時代 皮甲

山越族(異民族)

 

殷を倒して建国された周王朝が異民族の侵入により都を遷都して衰えると各地の諸侯が天下の覇権を争う春秋戦国時代の幕が開きます。

 

長い戦乱の中で鎧も改良され、春秋時代には革製の甲冑を強化した皮甲(ひこう)が製造されました。皮甲の素材は牛革でしたが、最高級の素材として丈夫なサイ革で造られたものもあります。

 

三国志の武器 重戦車 曹操

 

 

この時代の皮甲は高い襟を持つものが存在しますが、これは戦車戦の時、敵兵の()が首に引っ掛けられて戦車から落されないようにする工夫でした。また、この時代には皮の防水と腐食を防ぐ目的で表面に漆が塗られるようになり鎧の強度がアップしています。

 

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楚漢戦争

 

 

戦国 甲片

兵士

 

春秋末期から戦国時代の初期になると、大きくて身動きが制限される皮甲から漆を塗って強度を高めた皮革の(さね)甲片(こうへん)」が登場します。

 

甲片を複数革紐で綴った鎧が登場した背景には、当時の戦争が戦車同士の戦いから歩兵を中心とした集団戦に変化した事があります。それまで戦車戦であまり動かなくても良かったものが歩兵戦になり、ある程度伸縮する甲片の鎧の需要が高まったのです。

 

馬に乗って戦う飛信隊の信

 

こうして、歩兵戦が主流となった頃、武器に鉄が普及し革紐の甲片は断ち切られ役立たなくなる事が増えました。そこで革紐ではなく鋲で甲片を留めた鎧が登場し、軽くて動きやすいとして金属製の鎧が登場した後も重宝されるようになりました。

 

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前漢 鉄鎧

騎射の術に長けた騎馬兵士

 

秦が倒れた後に建国された前漢王朝でも、しばらく鎧は皮鎧のままでした。

 

しかし、遊牧民族の匈奴(きょうど)との激しい騎馬戦が盛んになると、縦横無尽に矢を放ってくる匈奴に対抗すべく鎧は徐々に首回りから大腿部まで広範囲を覆うようになります。

 

特に披膊(ひはく)と呼ばれる肩当てはコートのように、上腕から胸、肘近くまで保護する鉄製の鎧で兵士にとって欠かせないものになりました。

 

文聘(騎馬兵)

 

前漢の武帝の時代になると鉄札(てつざね)(つづ)って出来た鎧が主流になり、貴族や高官は2000枚の鉄札を綴った鎧を着て、鎧や兜にまで細かい装飾を施こし栄華と権力を誇示するようになります。

 

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三国 筒袖鎧と裲襠甲

進軍する兵士b(モブ用)

 

三国時代から南北朝の初期になると、鉄鎧である筒袖鎧(とうしゅうがい)が登場します。この鎧の最大の特徴は、それまで平坦に綴られていた鉄の小札を鱗状(うろこじょう)に重ねて綴るようになった事でした。

 

南北朝の初期の筒袖鎧は670㎏の威力を持つ機械仕掛けの強弩の矢でも貫通できない頑丈さを持っていました。同時にこの頃には、兜も鉄の小札で綴ったカバーがつくようになり、首やうなじのような太い血管が通る場所を保護しています。

 

また、筒袖鎧がその名前の通り袖がついて上腕部や腋の下も鉄の小札で覆われているのが画期的でした。腋の下は心臓に近く、ここを剣や槍で突き刺されると致命傷になるのでカバーして死傷率を下げたわけです。

 

曹仁

 

三国志の時代には騎兵の鎧も独自の進歩を遂げ、裲襠甲(りょうとうこう)と呼ばれる鎧が登場しました。これは、鉄の小札で覆われた胸甲と背甲で出来ていて二枚を腰の革製ベルトで結んで使用しました。この裲襠甲には筒袖鎧と違い袖の部分がありませんが、これは馬上で槍や矛を振るう騎兵の動きを優先した為でした。

 

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唐 明光鎧・紙甲

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

世界帝国となった唐の時代には東西文化の交流もあり、鎧の素材も革や鉄だけでなく、フェルトや木綿などの素材が使われるようになります。唐の時代には儀式用の鎧も含めて13種類の鎧があり、用途で区別されたそうですが、その中でも特徴的な鎧を2つ紹介しましょう。

 

この時代に特に防御力が高かったのが明光鎧(めいこうがい)です。明光鎧の特徴は胸部と腹部、さらに背中の中心部につけられた護心鏡(ごしんきょう)と呼ばれる楕円形(だえんけい)の鉄のプレートで、この護心鏡が鏡のように光を反射する事から明光鎧という名前がつけられました。

 

上杉謙信が信仰した毘沙門天(神話)

 

ちなみに平安時代の四天王像、増長天(ぞうちょうてん)持国天(じこくてん)多聞天(たもんてん)広目天(こうもくてん)の身につけている鎧は唐の明光鎧です。もうひとつ、唐の時代には紙で作られた鎧も誕生していました。その名も紙甲(しこう)と呼ばれ、紙に絹や木綿の布を合わせて作られ南方地域で歩兵の鎧として圧倒的な軽さから船上でも使われています。

 

曹操

 

紙と言うとペラペラで頼りなさそうですが、実際には厚紙を木綿で裏打ちしたものを固く縫って強度を増しているので矢や種子島銃の弾は阻止できました。考えてみれば、防弾チョッキだってアラミド繊維の布を何重にも張り合わせたものですから布や紙だって工夫次第では鎧になるんですね。

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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