五虎大将軍のトリを務める趙雲。
関羽や張飛に比較して大手柄がないなど小粒呼ばわりもされますが、常に劉備の近辺を離れず、劉備死後も北伐を遂行する諸葛亮にとっての縁の下の力持ちとして誰もが知る人物です。
しかし、正史には功績が趙雲に次ぐとされながら、その記述が少ない為に三国志演義にも登場せずマイナー武将になってしまった人がいました。今回は蜀の影の五虎将、陳到について解説します。
陳到とはズバリ!
では、陳到について最初に簡単にズバリと解説したいと思います。
1 | 陳到は字を叔至と言い汝南の出身 |
2 | 豫州時代から劉備に従い、名声は常に趙雲に次ぎ 並んで忠勇を称えられた。 |
3 | 陳到の性格は重厚であり趙は忠義者で困難に打ち勝ち、 両者共に選りすぐりの精鋭部隊を統率し勇猛な戦いぶりだった。 |
4 | 夷陵の敗戦後、白耳兵を指揮して退却する劉備を護衛。 呉軍は白耳兵を恐れ追撃を断念した伝承がある。 |
5 | 建興(西暦223年)の初め、官職は永安都督、征西将軍に累進、亭侯。 |
6 | 延熙四年(西暦241年)以前に死去 |
以上が陳到についてのザックリとした解説です。ここからは、もう少し詳しく陳到について紹介していきます。
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趙雲と並び称される
陳到は字を叔至と言い汝南の人であるとされます。豫州時代から劉備に従い、名声は常に趙雲に次ぎ並んで忠勇を称えられました。そして、建興(西暦223年)の初め、官職は永安都督、征西将軍に累進、亭侯に封じられています。
陳到は常に趙雲と評価がセットであり、2人して以下のように讃えられていました。
征南将軍(陳到)の性格は重厚であり、征西将軍(趙雲)は忠義にて困難に打ち勝つ。両者共に選りすぐりの精鋭部隊を統率し勇猛な戦いぶりである。
こうしてみると陳到は重厚な性格で、滅多な事では動揺しない沈着冷静な人物であったかも知れません。
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李厳の配下として永安を守る陳到
陳到は趙雲の死後、李厳の支配下に入り、永安の守備を任されます。
ここは、かつて趙雲が駐屯し、夷陵の戦いで敗戦した劉備を迎えに行き救助しています。土地としては江州にあたり、魏というよりは孫呉に備えるために配置された兵力でした。
北伐に連れていかれなかった分、趙雲よりも能力は落ちる感じですが、永安は呉に近い難しい土地でしたから無能な将軍ではとても守り切れず、陳到は派手な活躍こそないものの、命じられた職務をしっかり遂行する人物だったと考えられます。
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劉備の親衛隊として白耳兵を率いる
また、風聞ですが、陳到は豫洲時代から趙雲と共に劉備の親衛隊で、最強の精鋭である白耳兵を率いていたという話もあります。
さらに、陳到は夷陵の敗戦後には、白耳兵を指揮して退却する劉備をサポートし、追撃する呉軍は白耳兵を恐れて、劉備を追撃できなかったとも言われているのです。
この白耳兵とは、元々白毦兵と呼ばれていたものが変化したと考えられ、耳が白いのではなく、毛飾りの事を意味し陳到の兵が白い毛飾りで装束を飾っていたという事らしいです。
そう言えば、諸葛亮伝が引く魏略に樊城に駐屯していた劉備が手持無沙汰に毦を編んでいる様子が描写されていますが、もしかしたらその毦は自分の親衛隊用の毛飾りだったのかも知れません。
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陳到に列伝がない理由は?
陳到に伝がない理由は不明です。
趙雲に次ぐと言われた人物が列伝らしきものがないのは不思議ではありますが、当の趙雲についても、正史の記述は290文字あまりと少なく三国志演義での人物描写は趙雲の子孫が書いたとされる趙雲別伝による部分が大きいです。
それでも、一行に満たない陳到よりは趙雲の記述は多く、見せ場になる阿斗救出などは史実なので人気が出るのも頷ける事ではあります。趙雲に比較すると、見せ場らしいポイントもなく、子孫が記録を書き残してもくれていない陳到は、それだけ目立つには不利と言えるでしょう。
しかし、正史三国志には、明らかに陳到よりも大した事がなく上司を庇って拷問に耐えた程度で、もう少し記述が多い人物もいますから不公平な感じはします。
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三国志ライターkawausoの独り言
今回は知られざる名将、陳到について解説してみました。功績は趙雲に次ぐと言われ、季漢輔臣賛では趙雲と並び称されながら一行たらずの記述しかなく、どんな戦いに参戦したのか全く不明な陳到。
どうして列伝が記録されなかったかも含めて極めて謎です。あるいは、存在していたものが、何らかの理由で紛失し、陳寿も書きたくても書けなかったという事かも知れませんね。
参考文献:正史三国志 季漢輔臣賛、李厳伝
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