馬超の後を継いだ馬岱はどこに消えたのか?


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馬岱

 

馬岱(ばたい)は蜀の五虎将軍である馬超(ばちょう)従兄弟(いとこ)です。三国志に列伝は立てられていないものの、西暦222年に死んだ馬超の後を継いで異民族を従え、位も三品の平北将軍(へいほくしょうぐん)陳倉侯(ちんそうこう)にまで昇進しました。

 

反乱を起こす羌族

 

ある意味で馬超亡きあとの氐族(ていぞく)羌族(きょうぞく)のまとめ役を期待された馬岱ですが、西暦235年を境に、その名は歴史から消えてしまいます。一体、馬岱に何がありどこに消えてしまったのでしょうか?大胆に仮説を立ててみました。

 

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馬超の子を差し置いて馬氏を継いだ馬岱

ボロボロになった馬超

 

西暦222年に馬超は死去。従兄弟である馬岱に零落した馬氏の祭祀を継いでもらえるように劉備に請願しています。これだけ聞いていると、馬超には子供がいないかのようですが、実はそうではなく、恐らく蜀に来てから儲けたと考えられる馬承(ばしょう)という子がいました。しかし、馬超は実子を無視して、あえて従兄弟である馬岱に馬氏を継承させているのです。

 

これは、或いは馬承が二十歳になるまでの後見役という一時的な措置かも知れませんが、配下の遊牧民が家督相続を実力主義で行ってきた習慣を重視した措置とも取れます。

 

騎射の術に長けた騎馬兵士

 

これは馬超が、尚も羌や氐というような異民族を従えていた証拠であり、その大きな勢力を馬岱に委譲したという意味でしょう。劉備もこの点を重視し、馬岱を平北将軍とし陳倉侯に封じています。少なくとも、この時点では馬岱は馬超の後を継いで異民族騎兵を率いる平北将軍としての役割を期待されていたのでしょう。


西暦235年の敗戦で信用を失う馬岱

「ここにいるぞ!」と言いながら魏延を切る馬岱

 

正史三国志における馬岱の記述は、五丈原で諸葛亮(しょかつりょう)が死去した後に退却に反対し(そむ)いた魏延(ぎえん)を、楊儀(ようぎ)の命令を受けて追い駆け、斬り捨てたという所で終っています。しかし、三国志には登場しなくなった馬岱のその後は、晋書高祖宣帝懿紀(しんしょこうそせんていいき)忽然(こつぜん)と出現します。

 

青龍三年(235年)宣帝は、大尉に転任し封邑を加えられた。同年蜀将馬岱が攻めこんできた。宣帝は武将の牛金にこれを迎え撃たせ、

千あまりの首級をあげた。※武都の氐族の王である苻雙と強端とが、一族郎党六千人あまりを率いて投降してきた。

敗北する馬岱

 

この記録は、三国志には登場してきませんが、とても重要な一文だと思います。晋書によれば、諸葛亮没後の翌年に馬岱は、魏に攻めこみ迎撃した牛金に敗れ千人余りの部下を斬首されたわけですが、それに続いて武都の氐族の王である苻雙(ふしゅう)強端(きょうたん)が一族郎党六千人を率いて投降してきています。武都というのは、馬岱が封じられた陳倉の後方で、かつて諸葛亮が第三次北伐で扇動工作をして蜀に寝返らせた土地で、蜀漢の影響下にありました。だとすると、馬岱の敗北と苻雙と強端の投降はセットである可能性があります。

 

三国志のモブ 反乱

 

つまり、馬岱は武都の氐族を率いて司馬懿に挑んで牛金に蹴散らされ、その結果、魏の報復を恐れた苻雙と強端は魏に投降してきたと考えられるのです。これは蜀にとっては、大きなダメージだと思うのですが、どうしてそれが正史三国志に記録されなかったのでしょうか?全くの推測ですが、この戦いが蜀の指導部は全く知らない馬岱のスタンドプレーだったからではないでしょうか?敗北した上に武都の氐族が魏に寝返るという痛恨のダメージを蜀に与えた馬岱に対し、蜀は黙殺という形で報いたとは考えられないでしょうか?

 

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敗北後に敗走し所在不明になった馬岱

過労死する諸葛孔明

 

馬岱が魏に攻めこんだ頃、蜀は諸葛亮の急死で後継者も定まらない状態にありました。三国志演義とは違い、正史では諸葛亮は自身の後継者を高らかに宣言してなく、万が一の事があれば蔣琬が善いでしょうと劉禅に内々に打ち明けていただけです。その証拠に楊儀(ようぎ)は、諸葛亮の柩を守った自分こそが後継者と思い込み、その後蔣琬(しょうえん)が後継者と聞かされると不満を爆発させ「こんな事なら北伐軍を率いて魏に降ればよかった」と口走り庶民に降格されています。

 

楊儀

 

この混乱した状況下で馬岱は、魏に漬け込む隙を見つけ、独力で攻撃を仕掛けて大失敗したとも推測できるのです。そして、さらに悪い事には、この敗戦後、馬岱は蜀に戻ることなく逃げてしまった可能性もあるのです。馬岱が敗戦したばかりか逃亡した?にわかには信じがたい話ですが、その根拠については、次で考察してみます。


季漢輔臣賛に馬岱が出てこないのは行方不明だから・・

幕末 魏呉蜀 書物

 

西暦241年、蜀の楊戯(ようぎ)は蜀を支えた臣を讃えて季漢輔臣賛(きかんほしんさん)という書物を(あら)わしました。ここには、西暦241年までに亡くなった蜀の人臣が劉備を筆頭に諸葛亮、許靖(きょせい)、関羽、張飛、馬超と続いていますが、蜀書で列伝を立てられなかった小粒のマイナー人材も記載されています。しかし、この中にさえ馬岱は立伝されていません。平北将軍であり、陳倉侯にまでなった馬岱が列伝されていないのは不思議ですが、そこには馬岱は逆臣であるという楊戯の認識もあるのかも知れません。

 

kawauso

 

ただ、同時に季漢輔臣賛は、西暦241年の段階で存命であり、まだ評価の定まらない人物については記述されていないので、劉禅も姜維(きょうい)も、蒋琬(しょうえん)費禕(ひい)譙周(しょうしゅう)も掲載されていないのです。だとすると西暦241年の段階では、馬岱はまだ死んでなく、その為に伝が残されなかったとは考えられないでしょうか?

 

三国志ライターkawausoの独り言

 

馬超、さらに馬岱と敗戦が混んだ事で涼州の名族馬氏は、異民族の求心力を完全に失います。そこで蜀は考えた末に天水郡の名族である姜維に新たな異民族の糾合者としての役割を割り当てたのではないでしょうか?そして、命令違反をした上に逃亡してしまった馬岱を黙殺し伝に載せない事で、諸葛亮の忠臣としてのイメージのままバッサリと人生の後半を排除してしまったのです。みたいな事をkawausoは考えてしまいました。

 

参考文献:晋書、正史三国志

 

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