呉軍の戦略ミス
晋書の記述を読むと永安の戦いの流れは、以下のような時系列になるかと思います。
劉禅降伏
巴東周辺の官吏が逃亡するが羅憲が混乱を収集
盛曼が永安に侵攻するが敗れる
呉の侵攻に憤った羅憲は魏に帰順
鍾会が反乱の末に殺され成都付近の指導者が不在になる
歩協が永安を包囲するが羅憲に敗れる(この時に魏に援軍を要請?)
孫休が怒って陸抗らを援軍として派遣(前後して永安城で疫病が蔓延)
胡烈が西陵に向けて進軍
呉軍撤退
呉が本気で益州を狙っていたのであれば、初手から大きな失敗をしたと言えます。恐らく、盛曼が侵攻した時期は成都に鄧艾か鍾会がいた時期で、内側を固められる前に益州侵攻の足がかりとして永安が欲しかったのではないでしょうか。
また、永安の守りが手薄であったために一介の太守である盛曼を派遣しますが、この攻撃が羅憲を怒らせ、魏に帰順させるきっかけを与えました。
鄧艾の失脚や鍾会の反乱、そして失敗などその後の展開は読めなかったにしても、もう少し慎重に様子を見ていれば、永安を無視する選択肢も取れたはずです。
実際、2千の兵ではいくら羅憲でも呉軍が益州の奥深くへと侵攻するのを防ぎきることはできなかったと思います。また、羅憲が魏に帰順するのが遅ければ、援軍要請の時期も遅くなり、呉が益州の一部を奪う機会はあったでしょう。
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陸抗はなぜ城を落とせなかった?
陸抗といえば父親である陸遜にも負けず劣らずの有能な人物です。そんな陸抗が援軍として出陣したのに、なぜ永安城は落ちなかったのでしょうか。恐らくこれは、陸抗の援軍が永安城を包囲して間もなく、胡烈が西陵へ進軍を開始したためと考えられます。
史書では正確な時期が読み取れませんが、普通に考えれば2千程度の兵力で、3万以上の兵力を長期間防ぎ続けることは困難です。また、永安城では疫病も発生したようなので、より難易度は高かったはず。
また、資治通鑑の記述では羅憲は魏の援軍が来るまで半年近く、晋書の記述では1年以上持ちこたえたそうですが、これは大部分が陸抗の援軍が到着する以前の話ではないかと思います。
呉軍が撤退するのが264年7月なので、晋書の1年以上というのは誇張が過ぎますが、264年2月の時点で歩協が攻撃を開始し、そこから半年近く守ったのであれば辻褄が合います。
ただ、その大半は歩協が軍を率いていた時期で、陸抗たちが到着したのは7月に近い時期だったのではないでしょうか。魏も半年近く援軍を送っていないわけですが、これは羅憲をエサに陸抗が動くのを待っていたからで、陸抗もそれに備えていた可能性があります。
しかし、孫休が激怒したために出陣せざるを得なくなり、永安についた矢先に魏軍が西陵へ進軍したと考えられます。つまり、陸抗は永安の戦いではほとんど指揮を取っていなかったのです。
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三国志ライターTKのひとりごと
劉備が漢中を手に入れて三国時代の基盤ができた時期から見ると、約40年に渡り三つ巴の状態が続いていました。しかし、蜀漢が滅亡してから16年ほどで呉は滅亡しています。これには呉内部の弱体化もありますが、晋でも呉征伐に関して慎重派が力を持っていた時期が長かったので、主戦派が優勢であればもっと早くに呉は滅んでいたのかもしれません。
長江下流域を拠点とする呉にとって、益州はそれだけ鬼門だったと言えるでしょう。永安の戦いで急所を防ぎきれなかったことで、呉の命運は決まったのかもしれません。
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