【永安の戦い】永安攻防戦のナゾ、なぜ呉は2千の羅憲軍を破れなかったのか考察


 

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羅憲

 

蜀漢滅亡後、呉は旧蜀漢の領土である永安(えいあん)を攻撃しました。そして旧蜀漢の将であった羅憲(らけん)は、この攻撃を察知して呉軍を退けています。

 

陸抗

 

この時、羅憲が率いていた兵は2千ほどで、呉軍の兵力は10倍以上。加えて、呉は陸遜(りくそん)の息子である陸抗(りくこう)が兵を率いていました。呉軍にとって有利な条件が揃っていながら、なぜ呉は永安城を落とせなかったのでしょうか。今回はその理由を考察していきたいと思います。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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羅憲と永安の防御

黄皓と対立し左遷された羅憲

 

羅憲は右大将軍、巴東都督でもあった閻宇(えんう)の副将で、黄皓(こうこう)に従わなかったために巴東太守へ左遷された人物です。魏が益州(えきしゅう)へ侵攻すると閻宇は中央へと召喚され、残った羅憲は2千の兵とともに永安城を守りました。

 

降伏する劉禅

 

また、劉禅(りゅうぜん)が魏に降伏し、魏軍の将軍だった鄧艾(とうがい)が更迭、鍾会(しょうかい)が反乱の末に殺されると、永安付近の官吏たちは城を捨てて逃走。周囲には混乱が広がる中、羅憲は騒ぎ立てる者を斬って事態を収拾しました。

 

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蜀漢の滅亡

 

 
 



孫休、救援軍の派遣を検討

孫休

 

正史・三国志の三嗣主伝によると、孫休(そんきゅう)は263年の冬10月に蜀漢が魏に伐たれたという報せを受けて益州に向けて救援軍を派遣を検討しています。恐らくこれは漢中が抜かれたという報せを受けての動きで、この時は本気で救援をするつもりだったと考えられます。

 

呉を立て直す孫休

 

まず丁奉(ていほう)寿春(じゅしゅん)へ侵攻させ、丁封(ていほう)孫異(そんい)を漢水から漢中方面へ、留平(りゅうへい)施績(しせき)を永安方面から進軍させるという計画でした。

 

劉禅

 

しかし、この作戦は劉禅(りゅうぜん)が11月に降伏してしまったことで頓挫します。

 

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劉禅

 

 

呉軍、益州を目指す

無残な最期を遂げた姜維と鍾会

 

その後、益州では264年の正月前後に鄧艾の更迭や鍾会の反乱など大きな事件が連続して発生。

 

蜀が滅び、ちゃっかり蜀の領土を奪おうとする孫休

 

成都近隣の城は指導者が不在となり、それを好機と見た孫休は264年の2月に益州へと軍を派遣します。この時は救援という名目でしたが、本来は永安の羅憲を襲撃するのが目的でした。

 

蜀滅亡後も呉の来襲に旧蜀軍を奮起させる羅憲

 

しかし、この動きは羅憲に読まれていたために呉軍は敗退。永安を狙った理由ですが、長江の上流域を魏に抑えられると、下流に拠点を構える呉は不利になります。

 

大船団を率いて呉を攻める王濬(おうしゅん)

 

特に荊州の防衛が困難になることから、永安を足がかりに長江上流域を確保する狙いがあったのではないでしょうか。実際、呉が滅亡したときも王濬(おうしゅん)が建造した水軍が長江上流域から攻め込み、西陵(せいしょう)武昌(ぶしょう)を抑え、建業へと至っています。

 

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呉の武将

 

 

永安城、陥落せず

進軍する兵士b(モブ用)

 

襄陽記(じょうようき)によれば、巴東(はとう)の守りは固く呉軍は進軍できなかったそうです。晋書によるとこの時に永安を攻めたのは建平太守であった盛曼(せいまん)でした。

 

呉軍を撤退させた羅憲

 

次に撫軍将軍だった歩協(ほきょう)が永安を包囲しますが、羅憲は矢を射掛けてこれを撃退。加えて羅憲は城を出て包囲を破ると、楊宗(ようそう)を魏の都督江南諸軍事であった陳騫(ちんけん)のもとへ派遣し援軍を要請します。

 

永安城に陸抗を派遣させる孫休

 

永安城を抜けない事に怒った孫休は、陸抗らに命じて総勢3万人の部隊を動員し、永安城を包囲しました。永安城内では疫病が広がり、羅憲も厳しい状況になりますが、粘り続けた結果、陳騫の命を受けた胡烈(これつ)が西陵へと進軍。

 

陸抗 vs 羅憲

 

264年7月、呉軍は西陵の防衛のために永安城の包囲を解いて撤退を余儀なくされます。

 

羅憲を抜けず撤退する陸抗

 

こうした永安の戦いは呉軍の敗北で終わりました。

 

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呉軍の兵力考察

行軍する兵士達a(モブ)

 

羅憲軍の兵力は2千と言われていますが、呉軍の正確な兵力は不明です。陸抗らが出陣した際には3万を率いていましたが、当初の盛曼や歩協が攻めた際の軍隊の規模は明記されていません。

 

行軍する兵士達b(モブ)

 

孫休が追加で派遣した兵が3万であることを考えると、恐らく歩協の率いていた兵はそれ以下。呉軍の総兵力はそこまで多くなかったはずですし、4〜5万近い兵を率いて陥落させられないのであれば歩協の能力に疑問を感じます。恐らく建平太守だった盛曼は数千規模の兵で攻め、歩協は1万から多くとも2万程度の軍を率いていたのではないという予想です。

 

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KOEIの「三國無双2」をきっかけに三国志にハマる。
それを機に社会科(主に歴史)の成績が向上。 もっと中国史を知ろうと中国語を学ぶために留学するが 後になって現代語と古語が違うことに気づく。


好きな歴史人物:
関羽、斎藤一、アレクサンドロス大王、鄭成功など

何か一言:
最近は正史をもとに当時の文化背景など多角的な面から 考察するのが面白いなと思ってます。 そういった記事で皆様に楽しんでもらえたら幸いです。

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