永安攻防戦とは?姜維とは別の所で蜀を守った羅憲

2021年4月26日


 

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司馬昭から蜀の討伐を命じられる鍾会と鄧艾(トウ艾)

 

三国志の末期、魏はついに蜀に侵攻を開始しました。蜀への入り口である「剣閣(けんかく)」に魏の「鍾会(しょうかい)」「鄧艾(とうがい)」は攻め寄せます。そこを守るのは蜀の勇将「姜維(きょうい)」でした。

 

蜀の姜維

 

姜維は中央の政治から遠ざけられていましたが、剣閣の天然の要害にも助けられ、攻め寄せる魏軍を寄せ付けません。

 

鄧艾(トウ艾)と一緒に木を切り蜀に前進する鄧忠(トウ忠)

 

結局は鄧艾が別ルートで成都に迫り、蜀は降伏します。実はその後、呉も蜀の地に侵略を開始し、激しい攻防が展開されました。それが今回のテーマ「永安攻防戦(えいあんこうぼうせん)」です!

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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蜀の降伏後、呉が蜀への野心をむき出しに

劉禅

 

263年、蜀の劉禅(りゅうぜん)は魏に降伏をしました。

 

降参する姜維

 

これで蜀の国は滅亡し、剣閣で守っていた姜維も魏に投降することになりました。降伏後の蜀の主導権は鄧艾によって握られることになります。

 

呉を立て直す孫休

 

そんな時、蜀滅亡のどさくさに紛れて、呉が蜀の領土の侵略を企てます。呉は「援軍を送る」と見せかけて、「永安城」に兵を向かわせます。当時の呉の君主は孫権(そんけん)の息子「孫休(そんきゅう)」でした。

 

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羅憲、城で演説し、団結力を高める

羅憲

 

永安城を守っていたのは「羅憲(らけん)」でした。彼は宦官と対立し、この地に左遷された人物です。羅憲は呉の来襲を知ると、動揺する者たちに向かい、

 

「蜀の滅亡は呉の命運にもかかわることなのに、呉は蜀の難を救わず、利益ばかり追い求めている。蜀は滅んだ。しかし、呉も長くは無いだろう、どうして呉に降伏することができようか!」

 

と演説をしました。

 

進軍する兵士b(モブ用)

 

そして武具を整え、城の修繕をし、兵士たちの動揺を抑えることに成功したのです。やむを得ず呉軍は進軍を一時諦めます。

 

呉軍、再び襲来!

殺害される姜維と鍾会

 

264年、蜀の地で独立しようと反乱を起こした鍾会、そしてそれをそそのかした姜維も殺されてしまいます。

 

囚人護送車に乗せられドナドナ状態のトウ艾(鄧艾)とトウ忠(鄧忠)

 

また、蜀の主導権を握っていた鄧艾も讒言され、逮捕そして殺されてしまいました。

 

行軍する兵士達a(モブ)

 

その蜀の混乱を知り、再び呉は蜀へ侵攻を開始、永安城を囲みます。守る羅憲の軍勢はわずか2千ともいわれ、攻める呉はその数倍の兵士数だったといいます。

 

敗北し倒れている兵士達b(モブ)

 

しかし、羅憲はその迫る軍勢の攻撃に耐え、そして他の武将に包囲を突破させ、魏への援軍要請をすることに成功します。羅憲は城を守り続け、出撃した際には呉軍を散々に撃退します。

 

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鍾会の乱

 

孫休激怒、再度出兵するも

行軍する兵士達b(モブ)

 

永安城攻略の失敗の報を聞いた孫休は怒り、更に兵を増員し3万もの軍勢を永安に向かわせます。魏への援軍は依頼していましたが、いまだ到来せず、羅憲は籠城を続けました。

 

病気になった兵士

 

場内では病人も続出し、城の脱出を勧める者もいましたが、羅憲は「民を見捨てて、逃げることはできない」と籠城を続けます。そして半年後、ついに援軍は到着。呉軍は退却します。

 

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みうらひろし

みうらひろし

歴史が好きになったきっかけはテレビの再放送で観た人形劇の三国志でした。そこから歴史、時代小説にはまり現在に至ります。日本史ももちろん好きですよ。推しの小説家は伊東潤さんと北方謙三さん。 好きな歴史人物: 呂蒙、鄧艾、長宗我部盛親 何か一言: 中国で三国志グッツを買おうとしたら「これは日本人しか買わないよ!」と(日本語で)言われたのが思い出です。

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