三国志の末期、魏はついに蜀に侵攻を開始しました。蜀への入り口である「剣閣」に魏の「鍾会」「鄧艾」は攻め寄せます。そこを守るのは蜀の勇将「姜維」でした。
姜維は中央の政治から遠ざけられていましたが、剣閣の天然の要害にも助けられ、攻め寄せる魏軍を寄せ付けません。
結局は鄧艾が別ルートで成都に迫り、蜀は降伏します。実はその後、呉も蜀の地に侵略を開始し、激しい攻防が展開されました。それが今回のテーマ「永安攻防戦」です!
この記事の目次
蜀の降伏後、呉が蜀への野心をむき出しに
263年、蜀の劉禅は魏に降伏をしました。
これで蜀の国は滅亡し、剣閣で守っていた姜維も魏に投降することになりました。降伏後の蜀の主導権は鄧艾によって握られることになります。
そんな時、蜀滅亡のどさくさに紛れて、呉が蜀の領土の侵略を企てます。呉は「援軍を送る」と見せかけて、「永安城」に兵を向かわせます。当時の呉の君主は孫権の息子「孫休」でした。
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羅憲、城で演説し、団結力を高める
永安城を守っていたのは「羅憲」でした。彼は宦官と対立し、この地に左遷された人物です。羅憲は呉の来襲を知ると、動揺する者たちに向かい、
「蜀の滅亡は呉の命運にもかかわることなのに、呉は蜀の難を救わず、利益ばかり追い求めている。蜀は滅んだ。しかし、呉も長くは無いだろう、どうして呉に降伏することができようか!」
と演説をしました。
そして武具を整え、城の修繕をし、兵士たちの動揺を抑えることに成功したのです。やむを得ず呉軍は進軍を一時諦めます。
呉軍、再び襲来!
264年、蜀の地で独立しようと反乱を起こした鍾会、そしてそれをそそのかした姜維も殺されてしまいます。
また、蜀の主導権を握っていた鄧艾も讒言され、逮捕そして殺されてしまいました。
その蜀の混乱を知り、再び呉は蜀へ侵攻を開始、永安城を囲みます。守る羅憲の軍勢はわずか2千ともいわれ、攻める呉はその数倍の兵士数だったといいます。
しかし、羅憲はその迫る軍勢の攻撃に耐え、そして他の武将に包囲を突破させ、魏への援軍要請をすることに成功します。羅憲は城を守り続け、出撃した際には呉軍を散々に撃退します。
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孫休激怒、再度出兵するも
永安城攻略の失敗の報を聞いた孫休は怒り、更に兵を増員し3万もの軍勢を永安に向かわせます。魏への援軍は依頼していましたが、いまだ到来せず、羅憲は籠城を続けました。
場内では病人も続出し、城の脱出を勧める者もいましたが、羅憲は「民を見捨てて、逃げることはできない」と籠城を続けます。そして半年後、ついに援軍は到着。呉軍は退却します。
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