蜀漢滅亡後、呉は旧蜀漢の領土である永安を攻撃しました。そして旧蜀漢の将であった羅憲は、この攻撃を察知して呉軍を退けています。
この時、羅憲が率いていた兵は2千ほどで、呉軍の兵力は10倍以上。加えて、呉は陸遜の息子である陸抗が兵を率いていました。呉軍にとって有利な条件が揃っていながら、なぜ呉は永安城を落とせなかったのでしょうか。今回はその理由を考察していきたいと思います。
羅憲と永安の防御
羅憲は右大将軍、巴東都督でもあった閻宇の副将で、黄皓に従わなかったために巴東太守へ左遷された人物です。魏が益州へ侵攻すると閻宇は中央へと召喚され、残った羅憲は2千の兵とともに永安城を守りました。
また、劉禅が魏に降伏し、魏軍の将軍だった鄧艾が更迭、鍾会が反乱の末に殺されると、永安付近の官吏たちは城を捨てて逃走。周囲には混乱が広がる中、羅憲は騒ぎ立てる者を斬って事態を収拾しました。
孫休、救援軍の派遣を検討
正史・三国志の三嗣主伝によると、孫休は263年の冬10月に蜀漢が魏に伐たれたという報せを受けて益州に向けて救援軍を派遣を検討しています。恐らくこれは漢中が抜かれたという報せを受けての動きで、この時は本気で救援をするつもりだったと考えられます。
まず丁奉を寿春へ侵攻させ、丁封や孫異を漢水から漢中方面へ、留平と施績を永安方面から進軍させるという計画でした。
しかし、この作戦は劉禅が11月に降伏してしまったことで頓挫します。
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呉軍、益州を目指す
その後、益州では264年の正月前後に鄧艾の更迭や鍾会の反乱など大きな事件が連続して発生。
成都近隣の城は指導者が不在となり、それを好機と見た孫休は264年の2月に益州へと軍を派遣します。この時は救援という名目でしたが、本来は永安の羅憲を襲撃するのが目的でした。
しかし、この動きは羅憲に読まれていたために呉軍は敗退。永安を狙った理由ですが、長江の上流域を魏に抑えられると、下流に拠点を構える呉は不利になります。
特に荊州の防衛が困難になることから、永安を足がかりに長江上流域を確保する狙いがあったのではないでしょうか。実際、呉が滅亡したときも王濬が建造した水軍が長江上流域から攻め込み、西陵、武昌を抑え、建業へと至っています。
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永安城、陥落せず
襄陽記によれば、巴東の守りは固く呉軍は進軍できなかったそうです。晋書によるとこの時に永安を攻めたのは建平太守であった盛曼でした。
次に撫軍将軍だった歩協が永安を包囲しますが、羅憲は矢を射掛けてこれを撃退。加えて羅憲は城を出て包囲を破ると、楊宗を魏の都督江南諸軍事であった陳騫のもとへ派遣し援軍を要請します。
永安城を抜けない事に怒った孫休は、陸抗らに命じて総勢3万人の部隊を動員し、永安城を包囲しました。永安城内では疫病が広がり、羅憲も厳しい状況になりますが、粘り続けた結果、陳騫の命を受けた胡烈が西陵へと進軍。
264年7月、呉軍は西陵の防衛のために永安城の包囲を解いて撤退を余儀なくされます。
こうした永安の戦いは呉軍の敗北で終わりました。
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呉軍の兵力考察
羅憲軍の兵力は2千と言われていますが、呉軍の正確な兵力は不明です。陸抗らが出陣した際には3万を率いていましたが、当初の盛曼や歩協が攻めた際の軍隊の規模は明記されていません。
孫休が追加で派遣した兵が3万であることを考えると、恐らく歩協の率いていた兵はそれ以下。呉軍の総兵力はそこまで多くなかったはずですし、4〜5万近い兵を率いて陥落させられないのであれば歩協の能力に疑問を感じます。恐らく建平太守だった盛曼は数千規模の兵で攻め、歩協は1万から多くとも2万程度の軍を率いていたのではないという予想です。
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