改めて幾人もの名将たちが三国志に出てくることを日々、痛感しているばかりな筆者ですが、今回はその中から韓浩についてご紹介しましょう。韓浩はちょっと目立たないけれど、曹操にとても信用され、大切にされた武将の一人です。
そんな彼についてのエピソードもいくつかご紹介しましょう。
韓浩は夏侯惇に見出された一人
韓浩の字は元嗣、生年は不詳ですが、後漢末期の荒れた時代の出身であることは確かでしょう。若い頃から彼の故郷は盗賊たちに襲われることが多く、それを憂いた彼は村の皆で自警団のようなものを結成し、これを撃退しました。
このことを評価されて太守の従事とされ、その後は夏候惇に見出され、後に曹操に仕えることになりました。
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太守にはなれず……?
夏候惇に見出され、曹操に仕えた韓浩は、それからも良く働いて功績を挙げていきます。良い人材を見出すのが趣味の一つのような曹操、智勇兼備の韓浩を重用するようになり、護軍として任命されることになりました。
こうして韓浩は曹操の軍の中核となっていきます。そして曹操が漢中を得た際には、周囲の武将たちにも信用されていたのか、彼を漢中の太守にしては、と言われました。しかし曹操はこれを却下し、夏侯淵が漢中を預かることとなります。
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その理由とは?
どうして韓浩は漢中を任されることがなかったのでしょうか?
ここで夏侯淵に任せた辺り、縁故による任命でしょうか?
それともここに至って曹操の心は韓浩からは離れていたのでしょうか……?
いいえ、そうではありません。
曹操は「韓浩がいないとダメ!」と、手元から彼を離すことを嫌がったのです。これもまた信用と信頼の現れだったのですね。曹操は後に韓浩が亡くなった際にはその死を涙を流して惜しんだと言います。それほどお気に入りの武将だったのでしょう。
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夏候惇とのお話
さてそんな韓浩を見出したのは夏候惇ですが、その夏候惇との間に次のようなエピソードがあります。時代はだいぶ戻って、呂布が曹操の留守中に暴れた時のこと。これに対峙した夏候惇ですが、この時に呂布の配下が降伏してきました。夏候惇はこれを受け入れますが、これは相手の作戦でした。夏候惇は捕まり、夏候惇の命と引き換えに金銭を要求してきます。これに対処したのが韓浩です。
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敵の前に出てきた韓浩は
「夏候惇将軍を捕まえたからと助かると思うなよ!自分たちはお前たちを討伐するためにここにいる!」
「将軍は我らにとって柱のようなものではあるが、だからといって軍規を乱すことはできない!」
「例え夏候惇将軍を失っても、お前たちを生かすことはできない!……将軍、お許しを!」
韓浩は涙を流しながら叫び、賊軍討伐を開始。思わぬ行動に敵軍は武器を投げ捨てて命乞いするも、韓浩は彼らを許さず全員討ち取ったと言います。
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