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焦土作戦を選べず中途半端に籠城し降伏
後に張松らが劉備と内通していることを知って処刑。しかし時既に遅く、劉備との戦いが始まります。最後は成都での籠城になるも、その後は降伏の道を選びました。
この時に焦土作戦を提案されるも民のことを考えて決断できず、その果ての降伏でした。三国志演義ではかなり無能な君主として描かれている劉璋ですが、実際にはどちらかというと「乱世に向いている性格ではなかった」と言えるでしょう。
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狡猾さが足りず劉備に頼ったのが運の尽き
陳寿は「劉璋は英雄としての才に乏しく、土地や官位を奪い取られたのは不幸とは言えない」という厳しい評価をしています。
劉璋の個人的な評価ですが、劉焉のやり残したことを押し付けられた形になっている点には同情できる、と言えるでしょうか。劉璋と違って劉焉はかなり野心家で、狡猾な面があります。張魯を引き立てたことや、漢中との間に置いたこと、自分の地盤固めなど、かなりの手腕ですが、これを劉璋が引き継ぐには荷が重かったのでしょう。
しかしどちらにしろ黄権らが止めたにも関わらず、劉備を招き入れることにしたのは劉璋の決断。これは間違いなく劉璋の出した結論です。そう言う所を「英雄としての才能に乏しい」と評したとすると……厳しいながら、陳寿先生は正当な評価をしたのかもしれませんね。
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三国志ライター センのひとりごと
劉璋は現代の感覚で言えば、そこまで間違った人間ではないと思います。しかし当時、世は乱世、そもそも父親が群雄割拠の時代を開いてしまったとも言えるのです。その中で育ったにしては、やはり「才能に欠ける」人間だったと言わざるを得ません。
何とも評価しにくい人物なのですが……今回はこれにて。
ちゃぽん。
参考文献:蜀書劉二牧伝 魏書張魯伝
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