姜維と陳寿は面識があった?陳寿の姜維への評価が辛辣な理由

2021年10月12日


 

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晋蜀の産まれ 陳寿

 

陳寿(ちんじゅ)は正史「三国志」の著者です。彼は三国志を記すにあたり、各人物の「伝」(伝記)に「評」といって各人の評価を書いています。

 

姜維

 

陳寿はもともと蜀に仕えていた人ですが、その蜀末期の中心人物「姜維(きょうい)」についての評価はとても気になります。今回の記事ではそんな陳寿の姜維評と陳寿という人物にも触れてみます。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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姜維の生涯

孔明と姜維

 

姜維は現在でも評価が分かれる人物ですが、その生涯を正史「三国志」から探ってみます。彼は涼州(りょうしゅう)の天水地方に生まれ、かの地の豪族の出身でした。始めは魏に仕えていましたが、諸葛亮(しょかつりょう)の北伐の際に蜀に降伏しています。

 

姜維と孔明

 

その後は諸葛亮にその才能を高く評価され、徐々に蜀軍で存在感を増していきます。諸葛亮亡きあとは蔣琬(しょうえん)費禕(ひい)が蜀の実権を握り、内政中心の政治を行います。

 

北伐したい姜維を止める費禕

 

姜維は度々大規模な北伐を計画していましたが、蔣琬、費禕が存命の内は大きな戦をすることはできませんでした。

 

費禕の没後、北伐の準備に取り掛かる姜維

 

しかし彼らが亡くなった後、軍権を握った姜維は度々大規模な北伐を決行。時折戦果を挙げたものの、魏を倒すことは出来ず、蜀の国力を疲弊させていきます。

 

姜維怨嗟の声

 

宮廷では宦官が力を持ち、国内は乱れていきます。そんな中、魏が蜀に侵攻し、蜀は滅亡。

 

殺害される姜維と鍾会

 

姜維は魏に降伏した後、反乱を計画しますが失敗し、殺されてしまいます。

 

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北伐の真実に迫る

北伐

 

 

陳寿の姜維の評価は?

正史三国志を執筆する陳寿

 

「三国志姜維伝」の最後に陳寿は姜維をこのように評価しています。「姜維は文武に優れ、志は高かったが、やみくもに軍を動かし、結果的に蜀の滅亡を早めた。

 

老子(ろうし)(紀元前6世紀ころの道教の始祖)は言った。“大きな国を治める時は、小魚を煮る様に無闇にかき回さずじっとしたほうが良い。”(大国を治むるは小鮮(しょうせん)()るが若し)蜀は小さな国だったのに、しばしばかき回すのはいかがなものだろうか?」と、厳しく姜維の事を評価しています。

 

陳寿は「三国志」において、淡々とその人の業績を記しているのですが、最後の「評」では感情的になることもあるようです。

 

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春秋左氏伝

 

 

正史「三国志」の作者「陳寿」とは?

晋の陳寿

 

陳寿は「三国志」の著者ですが、三国志には陳寿本人の「伝」はありません。例えば「司馬遷(しばせん)」の「史記」にも本人の伝記がありますし、他の歴史書にも著者の列伝があることが多いので、これは珍しいことと言えます。

 

晋の陳寿

 

陳寿の生涯はのちに編纂(へんさん)された「晋書(しんじょ)」によって知ることが出来ます。陳寿は益州(えきしゅう)の出身で、初めは蜀に仕えていました。しかし、父の喪中に体調を崩し、薬を作らせましたが、これが「親不孝だ」と言われ、あまり出世できませんでした。

 

これは当時の儒教の精神で、「親の喪中に自分の身を労わるなど親不孝である。」という今では理解しがたい価値観があったからでした。

 

羅憲

 

蜀滅亡後もこの評判のせいでなかなか仕官できませんでしたが、かつての同僚「羅憲(らけん)」によって推薦され、司馬炎(しばえん)の「西晋」に仕えることが出来ました。そして数々の歴史書や地方史を編纂しそれが高く評価され、「三国志」の編纂につながりました。

 

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蜀のマイナー武将列伝

 

 

姜維と陳寿、接点はあったのか?

陳寿(晋)

 

姜維に対して辛辣な評価をした陳寿でしたが、二人の接点はあったのでしょうか?

 

無残な最期を遂げた姜維と鍾会

 

姜維が蜀に仕えたのは228年ころで亡くなったのが蜀滅亡の1年後の264年です。一方陳寿が蜀に仕えたのは正確には不明ですが、陳寿の生まれが233年ですので、250年前後には蜀に仕官し、蜀滅亡まで10年くらいは働いていたと考えられます。

 

北伐したくてたまらない姜維

 

と、いうことは姜維がバリバリ北伐を決行していたころ陳寿はそれを宮廷で見ていたことになりますね。陳寿は蜀で司書のような仕事をしていたそうで、姜維と直接会っていたかどうかは微妙ですが、恐らく彼の評判は大いに聞いていたでしょう。

 

姜維

 

陳寿は宮廷の混乱ぶりや国の荒廃も感じていたでしょうから、それが姜維への辛辣な評価につながったのかもしれませんね。ただ、陳寿は宮廷の宦官と対立し、成都から左遷されていた、という話もあります。

 

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鍾会の乱

 

別れる姜維への評価

蜀の姜維

 

陳寿は姜維を辛辣に評価しましたが、他の人の姜維への評価は分かれています。

 

裴松之(歴史作家)

 

例えば三国志に「注」(追加の文章)を付けた「裴松之(はいしょうし)」は三国志本文での姜維の失敗に対して、ことごとくそれを擁護するような文を注釈としてつけています。これらの文章はのちの小説「三国志演義」の基になったと考えられます。

 

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三国志ライターみうらの独り言

みうらひろし(提供)

 

陳寿は姜維に対して厳しい目をしていたようですが、それは自分の職場を乱されてしまった姜維に対しての嫌みも若干あったかもしれません。一方自分を推薦してくれた「羅憲」に対しては絶賛しています。「三国志」本文では陳寿の肉声は殆ど感じられませんが、このようなことから陳寿の人柄が少しだけ感じられますね。

 

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歴史が好きになったきっかけはテレビの再放送で観た人形劇の三国志でした。そこから歴史、時代小説にはまり現在に至ります。日本史ももちろん好きですよ。推しの小説家は伊東潤さんと北方謙三さん。 好きな歴史人物: 呂蒙、鄧艾、長宗我部盛親 何か一言: 中国で三国志グッツを買おうとしたら「これは日本人しか買わないよ!」と(日本語で)言われたのが思い出です。

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