「二代目益州牧 劉璋」国を劉備に奪われたのは彼の自業自得なのか考えてみた

2022年6月27日


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漢中王になる劉備

 

劉備(りゅうび)は「三国志(さんごくし)」の一国、蜀の皇帝となりますが、もちろん最初から蜀の地を持っていた訳ではありません。

 

時代は乱世、群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)の時代の中で様々な群雄たちが争い、その土地の覇権をかけて戦い、奪い合い……この辺りのドラマが、後に三国志演義(さんごくしえんぎ)を彩っています。

 

桃園三兄弟 vs 呂布の一騎打ち

 

さて劉備の前の蜀、益州(えきしょう)のトップと言えば劉璋(りゅうしょう)です。今回はちょっと彼について話しましょうか。

 

 

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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父、劉焉が益州に移動して半独立

劉焉

 

そもそも劉璋の父、劉焉(りゅうえん)は名前から分かるように漢王室の末裔の一人でした。中央政権でそれなりの地位についていたにも関わらず、漢王朝のこの先が「やべぇ」ことに気付いていた劉焉は地方に移動することを思いつきます。

 

霊帝から益州統治を頼まれる劉焉

 

そこで「益州に天子の気あり」というお告げを聞き(まあ間違ってなかった)益州に移動。さり気なく情報収集のために劉璋含む三人の息子は中央に残し、民衆に人気な五斗米道(ごとべいどう)の教祖の張魯(ちょうろ)と裏で手を組み漢中(かんちゅう)を封鎖させ、中央から離れた土地で力を付けていました。

 

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長安に手を出し息子2人を失い失意の内に死去する劉焉

呂布に暗殺される董卓

 

さて中央では董卓(とうたく)がやりたい放題を開始し、それが呂布(りょふ)に討たれ、大混乱に。ここでよりによって劉焉は再び中央に色気を出したばかりに、長安(ちょうあん)に留まっていた長男と次男は殺されてしまいます。

 

李傕・郭汜祭り

 

事前に朝廷から劉焉に戻ってくるように説得役として派遣された(そして帰らなかった)劉璋だけが残ったのでした。ここで不幸が重なり、気落ちしてしまった劉焉は失意のまま亡くなります。

 

殆ど劉焉は朝廷から独立状態でしたが、一応は朝廷から派遣されてきたという存在です。この後継者として立てられたのが、生き残っていた劉璋となります。

 

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恐怖政治を維持できず統治が緩んだ劉璋

劉璋(りゅうしょう)

 

ここで劉璋の障害となったのが、劉焉の政治方針でした。劉焉は益州で権力を自分に集中させるべく、他の有力者たちを粛清していっていたのです。つまりは恐怖政治です。

 

泣きながら冤罪を訴えるも処刑される司馬瑋

 

もちろんその頃から不満を抱いている人々も多かったでしょうし、劉璋は優柔不断で威厳に欠ける所があり、彼らの制御ができなくなっていました。

 

劉璋

 

その上で漢中の張魯が独立。元々張魯はその母と劉焉が親しくしていたことで取り立てられた所もあり、これにブチ切れた劉璋はその母親と弟を処刑。張魯との決別は決定的になりました。

 

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張松を魏の使者として送り出したのが失敗

劉璋にアドバイスをする張松

 

それから反乱祭りで忙しくなっている所、曹操(そうそう)がやってきます(荊州(けいしゅう)に)。荊州に入ってきた曹操とは仲良くしておこうとしたのか、使者を送ります。

 

使者は丁寧に持て成されました。この後にも再び使者を送ります。使者は丁寧に持て成されました。何を考えたのか劉璋は再び使者を送るのですが、この時に送ったのがあの張松(ちょうしょう)です。

 

曹操にキレて劉備を贔屓する張松

 

この時に曹操は赤壁(せきへき)の戦いの直前で気分絶頂、周囲に敵なんかいないぜ!状態でした。このため張松は適当な扱いをされてしまい、後の劉備を招き入れる事態に繋がります。赤壁の戦いの後だったら話は違ったかもしれませんね。

 

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張松と法正が狼中年劉備を引き込む

法正と劉備

 

さあ赤壁の戦いの後、張松は適当に扱った曹操に怨みがあったために曹操の悪口を劉璋に吹き込み、曹操よりも劉備殿と仲良くしましょう!と提案。そうして劉璋は漢中の張魯対抗するためにも、劉備を招き入れることにしました。

 

法正と孟達

 

因みに劉備を招き入れることに賛成したのが張松、法正(ほうせい)孟達(もうたつ)

 

王累

 

劉備を招き入れることに反対したのが黄権(こうけん)王累(おうるい)です。ここはテストには出ませんが覚えておくと楽しいです。

 

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永安の戦い

 

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両親の持っていた横山光輝の「三国志」から三国志に興味を持ち、 そこから正史を読み漁ってその前後の年代も読むようになっていく。 中国歴史だけでなく日本史、世界史も好き。 神話も好きでインド神話とメソポタミア神話から古代シュメール人の生活にも興味が出てきた。 好きな歴史人物: 張遼、龐統、司馬徽、立花道雪、その他にもたくさん 何か一言: 歴史は食事、神話はおやつ、文字は飲み物

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