劉備は「三国志」の一国、蜀の皇帝となりますが、もちろん最初から蜀の地を持っていた訳ではありません。
時代は乱世、群雄割拠の時代の中で様々な群雄たちが争い、その土地の覇権をかけて戦い、奪い合い……この辺りのドラマが、後に三国志演義を彩っています。
さて劉備の前の蜀、益州のトップと言えば劉璋です。今回はちょっと彼について話しましょうか。
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父、劉焉が益州に移動して半独立
そもそも劉璋の父、劉焉は名前から分かるように漢王室の末裔の一人でした。中央政権でそれなりの地位についていたにも関わらず、漢王朝のこの先が「やべぇ」ことに気付いていた劉焉は地方に移動することを思いつきます。
そこで「益州に天子の気あり」というお告げを聞き(まあ間違ってなかった)益州に移動。さり気なく情報収集のために劉璋含む三人の息子は中央に残し、民衆に人気な五斗米道の教祖の張魯と裏で手を組み漢中を封鎖させ、中央から離れた土地で力を付けていました。
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長安に手を出し息子2人を失い失意の内に死去する劉焉
さて中央では董卓がやりたい放題を開始し、それが呂布に討たれ、大混乱に。ここでよりによって劉焉は再び中央に色気を出したばかりに、長安に留まっていた長男と次男は殺されてしまいます。
事前に朝廷から劉焉に戻ってくるように説得役として派遣された(そして帰らなかった)劉璋だけが残ったのでした。ここで不幸が重なり、気落ちしてしまった劉焉は失意のまま亡くなります。
殆ど劉焉は朝廷から独立状態でしたが、一応は朝廷から派遣されてきたという存在です。この後継者として立てられたのが、生き残っていた劉璋となります。
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恐怖政治を維持できず統治が緩んだ劉璋
ここで劉璋の障害となったのが、劉焉の政治方針でした。劉焉は益州で権力を自分に集中させるべく、他の有力者たちを粛清していっていたのです。つまりは恐怖政治です。
もちろんその頃から不満を抱いている人々も多かったでしょうし、劉璋は優柔不断で威厳に欠ける所があり、彼らの制御ができなくなっていました。
その上で漢中の張魯が独立。元々張魯はその母と劉焉が親しくしていたことで取り立てられた所もあり、これにブチ切れた劉璋はその母親と弟を処刑。張魯との決別は決定的になりました。
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張松を魏の使者として送り出したのが失敗
それから反乱祭りで忙しくなっている所、曹操がやってきます(荊州に)。荊州に入ってきた曹操とは仲良くしておこうとしたのか、使者を送ります。
使者は丁寧に持て成されました。この後にも再び使者を送ります。使者は丁寧に持て成されました。何を考えたのか劉璋は再び使者を送るのですが、この時に送ったのがあの張松です。
この時に曹操は赤壁の戦いの直前で気分絶頂、周囲に敵なんかいないぜ!状態でした。このため張松は適当な扱いをされてしまい、後の劉備を招き入れる事態に繋がります。赤壁の戦いの後だったら話は違ったかもしれませんね。
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張松と法正が狼中年劉備を引き込む
さあ赤壁の戦いの後、張松は適当に扱った曹操に怨みがあったために曹操の悪口を劉璋に吹き込み、曹操よりも劉備殿と仲良くしましょう!と提案。そうして劉璋は漢中の張魯対抗するためにも、劉備を招き入れることにしました。
劉備を招き入れることに反対したのが黄権、王累です。ここはテストには出ませんが覚えておくと楽しいです。
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