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どうして劉備に荊州を貸したのか?
さて、魯粛がどうして劉備に荊州を貸してやれ、と言ったか。それについては色んな考察がありますが、あくまで天下二分、もしくは三分の計を主軸に考えるなら、曹操に対抗できるようにある程度劉備にも力を持たせておくべき、という考えでしょうか。
後、周瑜は魯粛に後事を託してこの世を去ります。そしてその後、呉劉同盟は魯粛が主軸になって動かしていくのですが……。
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荊州問題スタート
215年、関係が悪化します。
劉備が益州を平定した時に、孫権は領土を返すように、と言いました。しかしこれを劉備は突っぱね、怒った孫権は長沙、桂陽、零陵を占領。関羽はこれに兵を出して二国開戦、更には劉備も出陣してきます。
が、ここで曹操が動きました。このため劉備は速攻で孫権と和議を結び、江夏、長沙、桂陽を孫権に渡すことで一先ず決着がついたのです。
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魯粛と関羽の対談『単刀赴会』
そしてこの時、関羽と魯粛が対談を行いました。これが単刀赴会と呼ばれるものです。
この対話で魯粛は劉備が不当に荊州を占拠していると関羽を責め、座にいた一人が反論するとこれに怒り、関羽がそれに詫びて一人を退陣させ、魯粛の言葉に答えようもなかった……という魯粛カッコいいエピソードなのですが、結局はその後、劉備と孫権の和議で一先ず終わりになっちゃうんですけどね。
その後、217年に魯粛は死去。そして219年、関羽の北上に対して呉が動き、関羽は処刑。その後劉備も夷陵で大敗北、結果、荊州は孫権が取り戻しました……というお話です。
ただしこの夷陵の戦いで蜀は力を失い、呉と蜀の一緒に魏と戦おうぜ!作戦がその後は上手くいかなくなってしまうのですが……またそれは、別のお話。
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三国志ライター センのひとりごと
はてさて、ややこしい荊州問題でした。三国志演義ではお人好しな魯粛ですが、実際にはあくまで劉備を利用することを考えているだけで、厳しい態度を取る時はちゃんと取っている人でもあります。
ただしこの魯粛が返還期限を決めずに荊州を貸しちゃったのも結構な失策のような……?
まぁ魯粛も46歳で病死(たぶん……)ですし、もしかしたらもう少し生きていたら、劉備からしっかりと荊州を取り立てていたのかもしれません。
そう思うと荊州問題、ここの責任者が結構早く死んでしまうからどんどんややこしくなるんですねぇ……と、呉の都督の短命さを再確認した筆者でした。ちゃぽーん。
参考文献:呉書呉主伝 周瑜伝 魯粛伝
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