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習鑿歯は習偵が劉備に仕えたから蜀漢を推したのか?
では、どうして習鑿歯は蜀漢こそが後漢を継いだ正当な王朝だと主張したのでしょうか?やはり先祖の習偵が蜀に仕えていたので、蜀漢を正当な後漢の後継者として箔をつけたかったのかと早合点してしまいそうですが、どうやら違うようです。
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蜀漢正統論は簒奪防止の方便
実は蜀漢正統論の背景には、東晋皇帝の権力の弱さがありました。東晋はすでに紹介した桓温や桓玄父子、その後の劉裕による簒奪の恐怖に悩まされていたのです。
東晋皇帝としては「簒奪は善くない!皇帝を敬いなさい」と言いたいのですが、晋王朝自体が曹魏からの禅譲により成立した事情を抱えていました。
簒奪者から見れば「ふ~ん、自分は簒奪で建国したのに俺達には簒奪するなって言うんだ。ふ~ん」とおまゆう状態であり、全く説得力がありません。
そこで晋は禅譲により成立したのではなく後漢の後継者である蜀漢を滅ぼして初めて成立したのだと蜀漢正統論を持ち出して簒奪を阻止しようとしたのです。
つまり習鑿歯は先祖の習禎が蜀に仕えていた事に関係なく、東晋簒奪を阻止する政治的な意図をもって蜀漢正統論を推したのですが、その東晋は劉裕の簒奪で滅びました。
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習禎がいたから漢晋春秋は生まれた?
蜀漢正統論はあくまで政治的な方便と述べましたが、清の乾隆帝の時代に成立した歴史書「四庫提要」によると、漢晋春秋は中原を曹魏に追われて巴蜀に逃げのびた蜀漢の境遇に東晋を重ね合わせたとしています。
この見方が正しいなら、やはり習鑿歯にとって先祖の習禎は悪の曹魏に立ち向かい蜀漢を興した劉備に味方した英雄であると認識していた事になります。
「ご先祖様は悪い曹操に対抗し蜀を建国した劉備の忠臣だ!龐統には負けるが馬良には名声で勝っていたんだぞ」習鑿歯にはこんな思いがあり、それが漢晋春秋を編纂する動機になったとすれば地味な習禎は蜀漢正統論の補強に一役買っていたと言えるかも知れません。
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三国志ライターkawausoの独り言
今回は習禎について、というより7割は子孫の習鑿歯について書いてみました。習偵は龐徳公や司馬徽のグループに入っていなかったために劉備の率いた荊州襄陽組では、あまり大きな顔が出来ず、またそれを実力で覆すほど高い才能に恵まれなかったのかも知れません。
それでも子孫に習鑿歯が登場し東晋の英雄桓温に仕えるに至り、蜀漢を正統とする「漢晋春秋」を編んで後世に影響を与えました。習偵は子孫の習鑿歯により蜀漢をメジャーにする事に一役買ったと言えるでしょう。
参考文献:正史三国志 漢晋春秋
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