習禎とはどんな人?事績が乏しいが習鑿歯に蜀漢正統論を主張させる原因になった人

2022年8月23日


 

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習禎とはどんな人?

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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習鑿歯は習偵が劉備に仕えたから蜀漢を推したのか?

司馬昭の質問に回答する劉禅

 

では、どうして習鑿歯は蜀漢こそが後漢を継いだ正当な王朝だと主張したのでしょうか?やはり先祖の習偵が蜀に仕えていたので、蜀漢を正当な後漢の後継者として箔をつけたかったのかと早合点(はやがてん)してしまいそうですが、どうやら違うようです。

 

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蜀漢正統論は簒奪防止の方便

簒奪する王莽

 

実は蜀漢正統論の背景には、東晋皇帝の権力の弱さがありました。東晋はすでに紹介した桓温や桓玄(かんげん)父子、その後の劉裕(りゅうゆう)による簒奪(さんだつ)の恐怖に悩まされていたのです。

 

東晋皇帝としては「簒奪は善くない!皇帝を敬いなさい」と言いたいのですが、晋王朝自体が曹魏からの禅譲により成立した事情を抱えていました。

 

北方謙三風ハードボイルドな曹丕

 

簒奪者から見れば「ふ~ん、自分は簒奪で建国したのに俺達には簒奪するなって言うんだ。ふ~ん」とおまゆう状態であり、全く説得力がありません。

 

そこで晋は禅譲により成立したのではなく後漢の後継者である蜀漢を滅ぼして初めて成立したのだと蜀漢正統論を持ち出して簒奪を阻止しようとしたのです。

 

魏晋世語(書類)

 

つまり習鑿歯は先祖の習禎が蜀に仕えていた事に関係なく、東晋簒奪を阻止する政治的な意図をもって蜀漢正統論を推したのですが、その東晋は劉裕の簒奪で滅びました。

 

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習禎がいたから漢晋春秋は生まれた?

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蜀漢正統論はあくまで政治的な方便と述べましたが、清の乾隆帝(けんりゅうてい)の時代に成立した歴史書「四庫提要(しこていよう)」によると、漢晋春秋は中原を曹魏に追われて巴蜀に逃げのびた蜀漢の境遇に東晋を重ね合わせたとしています。

 

この見方が正しいなら、やはり習鑿歯にとって先祖の習禎は悪の曹魏に立ち向かい蜀漢を興した劉備に味方した英雄であると認識していた事になります。

 

曹操に立ち向かう劉備と孫権

 

「ご先祖様は悪い曹操に対抗し蜀を建国した劉備の忠臣だ!龐統には負けるが馬良には名声で勝っていたんだぞ」習鑿歯にはこんな思いがあり、それが漢晋春秋を編纂する動機になったとすれば地味な習禎は蜀漢正統論の補強に一役買っていたと言えるかも知れません。

 

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三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

今回は習禎について、というより7割は子孫の習鑿歯について書いてみました。習偵は龐徳公(ほうとくこう)司馬徽(しばき)のグループに入っていなかったために劉備の率いた荊州襄陽組では、あまり大きな顔が出来ず、またそれを実力で覆すほど高い才能に恵まれなかったのかも知れません。

 

それでも子孫に習鑿歯が登場し東晋の英雄桓温に仕えるに至り、蜀漢を正統とする「漢晋春秋」を編んで後世に影響を与えました。習偵は子孫の習鑿歯により蜀漢をメジャーにする事に一役買ったと言えるでしょう。

 

参考文献:正史三国志 漢晋春秋

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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