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司馬朗の善政の結果
人を食い殺すような猛獣がいる場所でも、それに親や子供が食べられてしまったとしても、それでも厳しい政治がないならそこに人は住み続ける。言い換えれば猛獣が傍に居るよりも、厳しい政治の方が恐ろしいという世の有様を良く表した言葉でしょう。
だからこそ司馬朗の善政とは民にとっては明確な、分かりやすい救いの手でした。そして司馬朗は堂陽の住民たちに深く慕われることとなります。それが分かる逸話があります。
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「司馬朗さまをたすけよう!」
当時、移民が良く行われていました。都の人口を増やすための政策です。ただ住民を移民させられるというのは、それだけ働き手などが足りなくなることも意味していて、困るようなことでもありました。
そして司馬朗の治める堂陽が移民させられた後、よりによって堂陽で造船する命令が下りました。働き手が少なくなって司馬朗が苦労している、と聞いた元堂陽の民たちは、夜間にこっそり都を抜け出して造船を手助けしたと言います。何だかおとぎ話に出てきそうなお話ですが、司馬朗が良く民に慕われていたのが分かる話ですね。
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兄と弟
さてこのように広く慕われていた司馬朗でしたが、ある時に崔エンから「君の才能は弟の司馬懿に及ぶところではない」と言われましたが、司馬朗はそれに気を悪くすることなく笑って同意して、弟の才能を高く評価したといいます。
そして後に弟の司馬懿は兄を思い出して「私は人格者として、兄の司馬朗に及ばなかった」と兄を偲んでいたと言われています。
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三国志ライター センのひとりごと
良く人格者だったと言われる司馬朗ですが、その評価が決して過大評価ではないことが良く分かります。惜しむらくは人格者過ぎて早逝してしまったことでしょうか。もっと彼の統治する様を見てみたかったです。
また魏の司馬兄弟、並べてみると中々に面白い関係です。またここに三男の司馬孚まで並べると……もしかしたら司馬懿が間で気まずそうにするかもしれませんね。
どぼーん。
参考文献:魏書司馬朗伝
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三国志の武将に特化したデータベース「はじめての三国志メモリーズ」