人格者と言われる司馬朗も賄賂を渡していた!董卓の暴虐に屈した簒奪者の兄

2022年7月24日


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司馬朗

 

司馬朗(しばろう)と言えば、司馬懿(しばい)のお兄さん。後に主に息子たちがやらかしてしまうので、簒奪(さんだつ)者、野心家のイメージが先行してしまう弟と対照的に、魏の忠臣として良く働き、残された逸話の数々からたいそうな人格者であったと言われています。

 

しかしそんな人格者にも実は黒い一面があった!?

そこで今回は司馬朗と賄賂のお話をちょっといたしましょうか!

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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司馬防の長男・司馬朗

司馬朗と司馬防

 

司馬朗は司馬懿の兄であり、司馬防(しばぼう)の長男になります。司馬防は大変厳格な父親であり、司馬兄弟たちはとても厳しく育てられました。このためか司馬朗は早熟で、幼い頃から物事をはっきりと話す、賢い子でした。

 

司馬朗

 

幼い頃からそうであったのですから、成長すればなおのこと。そしてこのはっきりと物事を話すことのできる胆力(たんりょく)が後の彼を助けるのですが、それはまた後で。

 

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司馬朗の疑惑

司馬朗と曹操

 

司馬朗は22歳の時に曹操(そうそう)から召し寄せられ、司空掾属に任ぜられました。これは(かつ)て曹操が若い頃、司馬防に洛陽北部都尉(らくようほくぶい)に起用して貰った縁もあったのでしょう。後に曹操は(ぎおう)になった時も司馬防を呼んで一緒にお祝いしたりしているので、感謝していたのかもしれませんね。

 

司馬朗

 

まぁこの時に司馬朗の年齢詐称疑惑も挙がっているのですが、それはまあ置いといて。

 

この後も司馬朗は成皋県令(せいこうけんれい)など、地方官吏を歴任していきますが、病気のために一時職を辞しています。弟と違って別に曹操から殺されるようになるエピソードもないのがちょっと面白い所でもありますね。

 

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曹操に評価される司馬朗

曹操

 

後、体長が……じゃなかった、体調が良くなった司馬朗は職務復帰。堂陽(どうよう)の県令に復帰することになるのですが、司馬朗の政策は大変寛大で、領民から良く慕われました。

 

当時としては罰則として鞭打ちや棒打ちなどがありましたが、司馬朗の領内ではこれらの刑罰を用いる必要がないほど、領民は禁を犯すことなく過ごしていたと言います。これらの手腕は曹操に高く評価され、後に丞相主簿(じょうしょうしゅぼ)として働くことになりました。

 

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人格者ゆえの司馬朗の悩み

司馬朗

 

そして中央で働いたのち、次はエン州刺史として働き、ここでも良く人々から慕われました。しかし後に()との戦いの中で疫病が流行り、司馬朗は自身の薬も他の兵士に分け与えて命を落としました。享年47歳、父である司馬防よりも二年前に亡くなったのです。

 

遺言として司馬朗は麻の服と頭巾のみと言う質素な衣服で弔いを望み、エン州の人々は彼の死に涙を流さない者はいなかったと言われるほど広く慕われていたと言います。……そんな人格者、清廉潔白であり汚点などひとかけらもなさそうな司馬朗ですが、実は嘗て、賄賂を用いたという話があるのです。

 

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両親の持っていた横山光輝の「三国志」から三国志に興味を持ち、 そこから正史を読み漁ってその前後の年代も読むようになっていく。 中国歴史だけでなく日本史、世界史も好き。 神話も好きでインド神話とメソポタミア神話から古代シュメール人の生活にも興味が出てきた。 好きな歴史人物: 張遼、龐統、司馬徽、立花道雪、その他にもたくさん 何か一言: 歴史は食事、神話はおやつ、文字は飲み物

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