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「贋書の計」で徐庶を引き込む
程昱は母親のお礼状を研究し、なんと徐庶の母親の字体を真似ることができるようになったのです。そして程昱は母親のふりをして徐庶に都に来るように促します。
母親の頼みであるからやむを得ず徐庶は都を訪れ、曹操に仕えることになります。しかし、母親は自分を訪れた徐庶に激怒、そして母親は自ら命を絶ってしまうのです。これにショックを受けた徐庶は曹操に仕えたものの、積極的に働くことはなかったそうです。
ちなみに劉備の元を離れる際に軍師として推薦したのが「諸葛亮」だったのです。
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史実の「徐庶」
史書「三国志」には徐庶の列伝は立てられておらず、「諸葛亮伝」の「注」で引用される「魏略」で少しだけ触れられています。それによると、経歴はだいたい「三国志演義」と同じですが、「贋書の計」は登場しません。
曹操に仕えた経緯としては、曹操軍に母親がとらえられてしまい、それを追ってやむを得ず曹操に仕えたことになっています。その後は魏である程度出世しますが、大軍を率いたり、国を動かすポジションまでは至りませんでした。
のちに諸葛亮が北伐で魏を訪れた際、徐庶の消息を聞き、「魏にはそれほど人材が多いのだろうか。徐庶がその程度しか用いられないとは。」とショックを受けていたそうです。
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贋書の計を行った程昱とは?
程昱は黄巾の乱や袁紹との戦いで活躍するなど、将軍としての活躍が目立つ人物です。しかし、小説「三国志演義」では軍師として様々な作戦を提案するなどちょっと印象が変わる人物となっています。
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三国志ライターみうらの独り言
「贋書の計」は実に卑怯な作戦であり、魏の悪役が強調されたエピソードですよね。しかし、徐庶が魏で活躍できなかったのは意外ですね。もしかして「三国志演義」での印象が強すぎる人物なのかもしれません。
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