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食糧不足の末イラついた諸葛誕に斬られる
嘗て対立した司馬師は既になく、次に魏の実権を握ったのは弟の司馬昭でした。ここで司馬昭相手に諸葛誕が反乱を起こします。この諸葛誕への救援として向かわせられたのが、以前から諸葛誕とは仲が良かった……なんてことは全然ない文欽でした。
息子二人を連れて寿春に入った文欽ですが、元々諸葛誕とは仲が悪く、兵量不足から兵士の一部を追い出すことを提案した文欽は諸葛誕に「二心有り」として切り殺されました。こうして文欽は歴史の舞台から消えることになります。
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どこでも自然体だった文欽の鈍感ぶり
さて思い出して欲しいのですが、文欽の入った場所は寿春です。包囲された諸葛誕は最終的に決死の攻撃をかけて出陣するも、討ち死にしました。この諸葛誕が死んでしまった後、配下の数百名は降伏を良しとせず、全員斬られることとなります。
しかしその誰もが「諸葛公のためなら死ねる」と言い、諸葛誕を恨むことなく死んでいきました。思うのですが、文欽、よくこんな所で諸葛誕といがみ合いできましたね?
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空気が読めない自分勝手人間文欽
元々文欽は、同僚たちに嫌われる性質でした。まあ元の性質もよろしくないようですし、諸葛誕とは性格が合わなかったのだろうとも思います。しかし当時の寿春は、諸葛誕が死んだ後はそれに殉ずるような兵士たちが多くいた所です。
そんな所で諸葛誕とただでさえ元から仲が悪いのに、兵士の一部を追い出せとか言っちゃう……余りに空気が読めてないのでは?もしかしてこの人の死因・空気が読めなかったでは?
もしかしてもしかすると、諸葛誕にじゃなくて諸葛誕の配下がブチ切れてやっちゃったのでは?
とふと思いついた次第です。とするとここで生き残っていたとしても、いずれどこかですぐに殺されてしまったのでは……とか思った筆者でした。
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文欽の記録、読み返してみれば読み返してみるほどにろくでもないのですよね。驚くほどどこに行っても周囲に嫌われている、しかしそれを省みた風がありません。更に言うならば、ああそれは嫌われるだろうな……という性格を裏付けするような記述ばかり。
これは本当に性格が悪かったのか、それとも実は周囲に嫌われていたから故意に貶められているのか……皆さんは、どちらだと思いますか?
ちゃぽーん。
参考文献:魏書?丘倹伝 諸葛誕伝