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袁譚が曹操に殺された後、袁煕、袁尚も
袁煕は袁尚と共に曹操と戦うことになり、最終的に烏丸に助力を受けて対抗。しかしそれでも曹操には勝てず、落ち延びた先は公孫康。公孫康は曹操と戦う意思などなかったために二人を騙して処刑、その首を曹操の手土産としました。
尚、これ以前に長男である袁譚は敗北した袁尚の軍を取り込み、曹操から「契約違反」とされ処刑されています。ここに袁家は滅びました。袁家の崩壊は官渡で曹操に袁紹が負けたからというよりも……兄弟の諍いと配下たちの仲の悪さが最大の原因だった……としか言えない最期だったのです。
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三国志ライター センのひとりごと
さて今回は袁家三兄弟、袁家を滅ぼす(結果的に)のお話をざっくりとしてみました。結局、内部争いをすれば自分の家が弱体化するため、曹操にとってはこれ以上ないナイスタイミングでの袁紹崩御だったでしょうね。
また袁紹が亡くなる前後から袁紹軍の配下の仲の悪さがじわじわ影響している所を見ると、袁紹がいなくなってからではどちらにせよ息子たちでは彼らを抑えきれなかったのかな、とも思います。ともあれ結束も決議もないまま、お家を滅ぼしてしまった袁家三兄弟でしたとさ。
ちゃぽーん。
参考文献:魏書袁紹伝 後漢書袁紹伝
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