三国志と言えば「三」ですね。そもそも三国志のきっかけも天下三分の計、何より三国志演義で有名な桃園の誓いは「劉関張三兄弟」ということもあり、三という数字に浪漫を感じずにはいられません。
しかし、三兄弟は実は他にもいるんだぜ!ということで桃園三兄弟にも負けない、名族である袁家三兄弟について今回はお話したいと思います。(文:セン)
この記事の目次
袁紹の息子達はスルーされがち
さて袁家三兄弟とは、河北の雄、袁紹の息子たちです。
まず長男は袁譚。
次男は袁煕。
そして三男が袁尚。
この三人は主に三国志では、官渡の戦いが終わって袁紹が死んでしまってからスポットライトが当たるのですが……三国志関連作品では官渡の戦いがサラッと流されたり、袁紹について描写不足だったり、下手をするとそもそもモノローグで名前すら出てこない内に滅んでいたりしたりもします。
このため三国志関連の仲ではどうにも不遇な三兄弟と言えるでしょう。因みに四男の袁買がいたという話ですが、彼に付いてはちょっとどんな立場か謎が多いため今回は申し訳ないけれど省略させて頂きます。
袁紹は思い切ったヤツだった!
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官渡の戦いで袁紹が負けたけどドンマイ!
さて曹操と袁紹の戦いで有名なのが官渡の戦い。官渡の戦いは当初は曹操軍も袁紹軍の顔良文醜を討ち取りはするものの、それでも揺るぐことはない袁紹軍。曹操軍を飲み込まんばかりの大軍に攻撃され、籠城戦を行ったのが官渡です。
しかしこの頃の袁紹、どうにも行動に精彩を欠くものが多く、郭図の言うことを聞いちゃったり、田豊を拘束して処刑してしまったり、許攸に寝返りされた上に内部リークされたり、よりにもよって張コウが曹操軍に投降しちゃったり……と、あれよあれよと問題が重なって敗北をしてしまいました。
ですが、この敗北が決して袁家に止めを刺すようなものではなかったのです。
袁術と仲が悪い袁紹
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袁紹が病気で急死し袁家三兄弟の出番
とりあえず官渡では敗北した袁紹。そしてこの一大センセーショナル事件は各地を駆け回りました。何せ大軍を率いて曹操を討ち果たせなかったどころか、敗北です。
という訳で冀州の各地で反乱祭りが起きました。ですがそこは河北の雄、反乱祭りを鎮圧しつつ、兵を整えます。もちろんこれは曹操と再戦し、今度こそ討ち倒すための準備。
そんな中、袁紹は突如亡くなります。
圧倒的だった袁紹
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袁紹の後継者を巡り激しく争う袁譚と袁尚
資料によると吐血して倒れて亡くなったようなので毒殺とかではなく、無理をしていて……という感じがしますが、ここで袁家は大変なことになります。袁紹、よりによって後継者を選んでいなかったのです。
ここで長男である袁譚、三男である袁尚、そしてその指示者たち(仲が悪い)による後継者争いという名のお家騒動が勃発してしまうのです。さあ、袁家の崩壊はここからです。
滅亡していく袁家
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教訓:後継者を指名してからあの世へ行こう!
因みに後継者問題に関しては色々な説があり、長男の袁譚を差し置いて三男の袁尚を指名していた説もあります。しかし審配が捏造して袁尚を後継者に推した……と、いう話もあります。
後に曹操に後継者問題を相談された賈ク先生が上記の返答をしたというのはあまりにも有名。これは「家は長子が継ぐもので、それを変えると家が亡びるよ」という遠回しな警告とも言われますが、もしかしたら「お家騒動に家臣のアドバイス取り入れるのは良くないですよ」という賈ク先生の有り難い教えだったのかもしれませんね。
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袁尚が優勢で困った袁譚が曹操に泣きつき泥沼
さあ始まりました袁家のお家騒動。長男の袁譚は自分が長男だから、三男の袁尚は自分が一番父親に可愛がられて後継者として育てられていた、と主張して戦い始めます。本来諫める配下まで元から仲が悪かったので争い始める始末。
当初は袁尚が優勢だったものの、ここで袁譚曹操に降伏。相手が曹操では袁尚も連戦連勝とは行かず、敗北した袁尚は次男、袁煕の元に逃げ込みます。因みに袁煕は別に後継者に推されたり、後継者を主張したりとかはしてなかったので……兄と弟の喧嘩に完全に巻き込まれたような感じになっていますね。
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