諸葛亮や趙雲と違い、名前からして南蛮らしい金環三結。金環三結は三国志演義に登場する架空の人物です。ここでは孟獲と金環三結のつながりや元帥の由来について紹介していきます。
五溪洞の守護神・金環三結
金環三結は孟獲の配下で、現在の雲南省の生まれです。五溪洞という村をテリトリーとする山賊のような存在でした。中国で「洞」はかなり外れの地域にある村を指します。「鎮」は都市部に近い村です。「洞」がついた時点で辺境の地というイメージを抱ければ充分です。
金環三結は董荼那や阿会喃とともに単独勢力として五溪洞を守り、諸葛亮軍に抵抗していました。いわば村の義勇軍です。
この金環三結を含む三人が固い結束で結ばれ、孟獲はその三人のボスのような位置づけでした。
孟獲のストラテジーと管轄争い
金環三結たちは山賊ですから、それぞれに警察のような管轄があります。五溪洞を3つの地域に分け、それぞれを第一洞、第二洞、第三洞と呼んでいました。
その洞の元帥に金環三結・董荼那・阿会喃が就き、金環三結は第一洞元帥という肩書でした。
孟獲は諸葛亮軍に対抗するため、この元帥ら三人を使うことにしました。五溪洞それぞれを支配する元帥はいましたが、3つのすべてを統率するリーダーは不在でした。そこで金環三結たちに大挙して押し寄せる諸葛亮軍に勝てたら、リーダーにしてやると話を持ち掛けたのです。
孟獲が練った作戦はこうです。諸葛亮軍が南蛮へと通る道は中央、左、右の3つがあります。真ん中を金環三結、左を董荼那、右を阿会喃が守り、それぞれに五万の南蛮兵をつけて戦うというものでした。
趙雲と魏延の策
南蛮討伐に来た諸葛亮は、趙雲と魏延に戦略を問います。理由は地形がよく分からなかったからです。
戦においては天気と地形を熟知したものが勝つことを諸葛亮は知っていたのです。
そこで趙雲と魏延は、たった二人でスパイ活動に出ます。魏延が山頂付近にいたところ下から南蛮兵が登ってきたので、飛び出して生け捕りにしました。南蛮兵を捕まえた魏延らは自分たちの陣営に戻り、彼らを酒や肴でもてなしました。同時に南蛮の地形や敵の布陣を聞きだしたのです。
すると南蛮兵は「中央の山のふもとに金環三結、左右に董荼那と阿会喃がいる」と漏らしてしまいました。南蛮の捕虜に案内してもらいながら魏延は五千の精鋭を率いて月明りの中、行軍を開始します。ほどなく金環三結の元へたどり着くと一気に攻撃を仕掛けます。
ちょうど朝ご飯の支度をしていた金環三結の部隊は、奇襲に為す術もなく散会します。そこを山から駆けおりてきた趙雲と金環三結が馬上で争います。
素早く趙雲が槍で一突きすると、金環三結は馬から落ち、敗北するのでした。
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「三洞元帥」の語源は古代インド神話に遡る!?
元帥というと軍の一番偉い人というイメージがあるでしょう。しかし、元をたどるとインド神話の大元帥明王へと行きつきます。”敵国粉砕”や”国土防衛”にご利益のある神様とされ、数ある”明王”のトップに君臨していたことから”大元帥明王 ”と名付けられました。
インドにほど近い雲南の金環三結が元帥を名乗り、大元帥明王にあやかっていたのも分かる気がします。その元帥が三人いたことから、五溪洞にいる三人の元帥を総称して「三洞元帥」と呼んでいました。
つまり、五溪洞で三洞元帥といえば、金環三結・董荼那・阿会喃の三人を指すのです。中国の小説では、こうした異名をつけることで強そうに見せる風潮があります。基本的には、その人数と地名などを掛け合わせて作られます。
また、大元帥明王にあやかったのは金環三結だけでなく、ドイツ陸軍のエーリヒ・フォン・マンシュタインやソ連海軍のセルゲイ・ゴルシコフ、旧日本海軍の東郷平八郎もいました。そして、中国には林彪元帥を含め十大元帥が存在します。
三国志ライター上海くじらの独り言
ファンタジー色の強い孔明の南蛮制圧ですが、史実にはない金環三結や祝融が登場してストーリーは盛り上がってきます。
こうしたフィクションが含まれた小説が中国で書かれることは珍しく、現在も多くの三国志ファンが存在する礎となっているのでしょう。
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