蜀の五虎将軍馬超は潼関の戦いに敗れた後、漢中の張魯を頼り、しばらくすると張魯にも疎んじられて、従兄弟の馬岱と劉備の陣営に転がり込みました。その時に馬超は長年仕えていた龐徳を置き去りにしていますが、それはどうしてなのでしょうか?
この記事の目次
龐徳を連れて行く方がメリットがある
龐徳には一族の龐柔という人物がいて劉備に仕えていました。これを考えると馬超にとって龐徳を連れて逃げるのはメリットがある事です。それでも馬超は龐徳を引き連れずに置いてきています。これはどう考えればいいのでしょうか?
こちらもCHECK
-
96話:孔明の計略炸裂!馬超は劉備の軍門に下る
続きを見る
馬超が置き去りにしたのではなく龐徳が拒否した
もしかすると事実は逆なのかも知れません。馬超は龐徳を逃亡に誘ったものの龐徳が従わなかったとも考えられます。しかし馬超に対しては忠義で応じた龐徳が馬超を見限るという事があるのでしょうか?
こちらもCHECK
-
龐徳(ほうとく)ってどんな人?忠烈な最期を称えられた魏(義)の猛将
続きを見る
馬超を見限ったのは龐徳だけではない
謎を解くカギは、正史三国志張魯伝が引く魏略にありました。魏略の記述によると馬超に従い漢中に入った面々の中に関中軍閥の程銀と侯選がいたと書かれています。しかし、この両者は馬超の逃亡に従わず張魯が曹操に降伏すると、そのまま曹操に従い官爵を得ています。
これを見ると、馬超を見限ったのは龐徳だけではなく程銀や侯選もそうだった事になり、馬超が龐徳らを見捨てたのではなく馬超が見捨てられた。が真実に近いのかも知れません。
こちらもCHECK
-
悲惨!馬超は劉備に帰参した時、本当に馬岱と2人のオケラ状態だった。
続きを見る
すでに主従関係ではなかったのか?
龐徳は程銀や侯選と異なり、高幹が反乱を起こした時に敵将の郭援を斬って、都亭侯になり中郎将に昇進しています。一方の馬超も馬騰から関中軍閥を引き継いだ時点で偏将軍、都亭侯へ昇進します。つまり官位においては、馬超と龐徳は対等な立場で主従関係になかったとも言えるのです。さらに漢中に身を寄せた馬超は亡命者として龐徳や程銀、侯選と立場が同じであり、命令を出せる立場にはなかったのかも知れません。
こちらもCHECK
-
まさにバーリトゥード!首絞め、刺殺、兜取り!何でもありだった。リアルな三国志の一騎打ちで馬超をフルボッコにした男がいた!
続きを見る
龐徳には帰る場所があった
また、一族をほとんど失い、本拠地の涼州を奪われお尋ね者になった馬超には故郷に戻る術はありません。この事が馬超をさらに辺境である蜀に落ち延びさせる原動力になったかも知れません。
一方で龐徳は反乱の首謀者でもなく、過去に漢王朝の為に手柄を立て、官職を持っている立場であり、曹操にさえ許されれば故郷に帰る事が出来る立場でした。朝敵として逃げ続ける宿命を背負った馬超と曹操を天秤にかけた時、龐徳が曹操を選んだのは不可解とは言えないでしょう。
こちらもCHECK
-
潼関の戦いの舞台関中はどんな土地?
続きを見る
三国志ライターkawausoの独り言
これまでの事を総合すると、馬超が龐徳を置き去りにしたのではなく、龐徳が馬超を見限り従わなかった可能性が高いように思います。大きな理由は馬超が曹操に弓を引いた反乱の首謀者で許される可能性がないのに対し、龐徳は部下として馬超に従っただけであり、曹操に許される可能性が高いという点があるかと思います。両者は同じく逃亡者ではありましたが、その境遇には大きな差が存在していたのです。
こちらもCHECK
-
錦馬超の武勇はどこまで本物なの?正史と演義を比較してみよう
続きを見る