羅貫中の「三国志演義」ではこれでもかというほど登場する「荊州」の二文字。また、2019年9月6日には三国時代の荊州を舞台にした映画『SHADOW/影武者』も公開予定です。現代でも映画の題材にも取り上げられるほど魅力ある荊州の地。
なぜ、三国時代に「荊州」が争いのポイントとなったのか現代の世界地図からはイメージしにくい点もあります。ここでは三国演義をベースに劉備と孫権の荊州争奪戦を紹介していきます。
戦後処理
劉備・孫権連合軍が曹操軍に勝利した後、領地問題が発生したのが荊州です。孫権サイドは赤壁の戦いでのビクトリーは孫権軍が主体で、劉備軍はおまけ程度にしか考えていませんでした。しかし、劉備軍にしてみれば赤壁は荊州の東。
西にある蜀への帰り際に荊州をかっさらうなどお茶の子さいさいでした。そこで劉備は蜀を立て、ついでに荊州も統治したのです。ちなみに劉備が駐屯したのは南東にある「公安門(小東門)」。あの関羽は戦に勝つと「得勝街」をわざわざ通って凱旋したそうです。
勝ちを得る街、縁起をかつぐのは日本人だけでなく関羽も同じでした。
呂蒙の説得
西暦215年。ついに孫権サイドが荊州の一部を返還するよう求めます。戦後のごたごたで奪い取られた土地を返すよう劉備に訴えたのです。いわば北方四島返還をロシア連邦に迫る日本の外務大臣のような心境。
意固地になった劉備は荊州をなかなか手放しません。ほどなく呂蒙は益陽まで進軍。数は1万ほどでした。
呂蒙は長沙と桂陽を降伏させましたが、零陵を守る「郝普」が抵抗。魯粛は罠を使って零陵を落としたのです。こうして荊州のうちの長沙・桂陽・零陵が武力によって掌握されました。
荊州の「州」とは国や国家という意味合いもあり、かなり広範なエリアを指します。現在の「荊州古城」は一つの小さな街ですが、三国時代の荊州は現在の湖北省と湖南省一帯を指していました。
曹操が漢中を奪う
そんな折、赤壁の戦いで潰走した曹操軍が「漢中」をターゲットに据えます。「漢中」とは名前の通り漢王朝の語源となった場所。その末裔である劉備が支配していないことから戦国時代であることが分かります。
また、漢中は南西の劉備がいる蜀へのルートにもなっています。ここを奪還すれば曹操軍は、いつでも蜀へと攻め入ることができるのです。
そこを守るのは張魯、いわゆる宗教家で「五斗米道」というお米を敬う新興宗教の親玉でした。ところが鬼の曹操軍は陽平関で足止めに遭い、やむを得ず撤退を決意。
そこに偶然、100頭を超える鹿の群れが「張魯教団」を襲い、あっという間に壊滅。天の助けもあって曹操軍は漢中を手にし、引き上げるのでした。ここを足掛かりに蜀へと攻めようと進言する部下もいましたが、曹操は目的は達したと一蹴して帰還します。
劉備が孫権と親戚に
傍若無人にも荊州に居座っていた劉備ですが、曹操軍が漢中を取ったと耳にするとあたふたします。長沙・桂陽・零陵を呂蒙に取られ、北からも曹操軍が迫っている状況。孫権サイドと友好関係を結んでおかなければ国家そのものが崩壊する危機にありました。まさに日本海に「光明星4号」を発射する北朝鮮の一歩手前だったのです。
一方の孫権は自分の妹(孫仁)を劉備に嫁がせ、義理の兄にアップグレードしています。その縁もあって魯粛は劉備との会談に成功。魯粛は「曹操が漢中を押さえた」ことを引き合いに出し、和睦を提案します。
そして、順当に南郡・武陵・長沙・桂陽・零陵の領有権を獲得。劉備は荊州の残りのほんの一部をもらうことで話しがついたのです。曹操は図らずも劉備と孫権の和睦のきっかけを作った形になりました。
三国志ライター上海くじらの独り言
赤壁の戦いのどさくさに紛れて荊州に居座った劉備軍ですが、曹操軍の脅威には勝てませんでした。
魯粛の計略も素晴らしいですが、劉備が荊州の大半を孫権サイドに返還したのは曹操が怖かったからでしょう。それぐらい漢中は蜀へとつながる中継地点と重要でした。
中国大陸は東西に大河があるものの南北に大河はありません。また北京と杭州を結ぶ「京杭大運河」が三国時代にすでにありましたが、すべて開通したのは西暦610年(隋王朝)です。つまり曹操が南下するには陸路をいくしかないのです。
そのため、劉備にとって漢中を曹操に奪われることは焦眉之急だったのです。
参考文献:「三国演義(中国語版)」羅貫中、「交通旅遊中国地図冊(中国語版)」湖南地図出版社
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