『三国志』といえば蜀が主役で、そのためか蜀の武将ばかりが取り上げられがちですよね。たしかに関羽や張飛といった猛将たちはとても華やかで、その活躍ぶりも鮮やかです。
しかし、蜀の最大のライバルである曹操率いる魏軍の武将たちだってその実力で言えば負けていません。呉人を子供から大人まで震え上がらせたという張遼や魏建国までの礎作りに貢献した于禁などをはじめ人材の数も実力も蜀をはるかに凌いでいたと言われています。
ところが、その数が多かったからか魏の武将たちの間には微妙な空気が流れることがチラホラ…。今回はその中でも特によくわからない微妙な関係にあったと言われている于禁と張遼の間柄についてご紹介したいと思います。
もともと敵対関係にあった于禁と張遼
于禁と張遼はそもそも敵対関係にありました。
というのも、于禁は曹操に仕えていて、張遼は呂布に仕えていたからです。曹操と呂布とは互いに覇を争う関係にあったので、于禁と張遼も自動的に敵対する関係となりました。
于禁は対呂布戦において大活躍し、呂布を生け捕りにしてその名を轟かせた武将です。一方、張遼は呂布の配下の敗残兵。呂布が処刑されるとさっさと曹操に下っています。于禁と張遼の2人はこうして同僚になったわけですが、古参の于禁と新参の張遼との間には微妙な空気が流れていたことでしょう。
楽進を含めて3人でいがみ合う…
于禁と張遼はその功績について曹操に並び称せられることが度々ありました。しかし、長く曹操に仕えている于禁にとって新参者の張遼が同じような待遇を受けていることはあまり良い気がしなかったことでしょう。
そしてそのとき、やはり同じく于禁や張遼と共に曹操から称賛されていた楽進も張遼のことが気に入らなかった様子。楽進を含めて3人の間はギスギスしていたわけですが、そのことを知ってか知らずか曹操は荊州の劉表に備えて3人を一緒に派遣してしまいます。
激しくなる3人のいがみ合い…。しかし、参軍となった趙儼のおかげで3人はなんとか協調することができるようになり無事任務を遂行することができたのでした。
于禁、張遼に兵糧を送る!
趙儼のおかげで于禁と張遼の間のギスギスした雰囲気は和らいだようですが、両者の関係をますます変化させる出来事が起こります。それは陳蘭・梅成の反乱を鎮める際の出来事です。
于禁が梅成、張遼は陳蘭を攻撃していたのですが、于禁がまず梅成を降伏させます。ところが、梅成軍の降伏は真っ赤な嘘で、ちゃっかり陳蘭軍と合流して張遼軍をたたき始めたのでした。このことによって苦戦を強いられた張遼軍は兵糧不足に苛まれることに…。しかし、そこに思わぬ助っ人が現れます。
それこそが于禁です!
于禁は兵糧を次々に張遼の元へ届けて張遼軍が攻撃に専念できるように手助けしました。結果、張遼は陳蘭・梅成の2人の首をゲットし、曹操からその功績を称えられて領地を倍増してもらえたのでした。このことがあってからは于禁と張遼の間には何の確執も無くなったことでしょう。むしろ、曹操を天下人にするという共通の志を持つ臣下同士であるということでお互いに認め合えたのではないかと思われます。
共に曹操の功臣と称えられるも…
于禁と張遼の2人は曹操配下の名将として同等に称えられていましたが、2人の評価の明暗を分ける出来事が起こってしまいます。それは、樊城の戦いでの于禁の大敗です。蜀の武神・関羽相手では流石の于禁も歯が立たず、于禁はやむなく降伏して捕虜になってしまいます。
そのような于禁とは対照的に最後まで戦い続けて死んだという龐徳の話が曹操まで伝わった結果、于禁の30年以上にわたる忠誠心はこの程度だったのかと曹操陣営にガッカリされてしまったのでした。
このことがあってから于禁は指折りの英雄から薄情な裏切り者へと評価を大暴落させ、張遼のように建国の功臣として祀られることもなく、現代に至るまで後ろ指をさされ続けることになってしまったのです。
三国志ライターchopsticksの独り言
張遼は于禁が関羽に降伏したときに何を思っていたのでしょうか?
于禁との関係は陳蘭・梅成以降かなり良くなっていたはずですから、自ら于禁を罵倒するようなことはしなかったでしょう。しかし、于禁の悪口については耳に挟んでいたに違いありません。于禁の悪口を聞く張遼の表情はなんとも言えず苦々しいものだったのではないでしょうか。
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