今回は夏侯淵の死因に付いてのお話です……というと、有識者の皆様には「そんなの基本中の基本すぎるよ!」と言われてしまいそうですが。
この夏侯淵の死因に関する、もっと言うとその直後のお話で、気になるワードが出てくるのです。それは「白地将軍」。今回はこの白地将軍という夏侯淵の呼び名と、夏侯淵の死因に関してのお話をしていきたいと思います。
この記事の目次
劉備が迫る、定軍山の戦い
では夏侯淵が戦死した戦い、いわゆる定軍山の戦いに付いてお話しましょう。219年、劉備が率いた5万もの蜀軍が漢中・定軍山に迫ります。これを迎撃するのは魏軍が誇る歴戦の猛将にして名将、夏侯淵と張コウ。
劉備軍はまず張コウに夜襲をかけ、張コウの軍はこの夜襲を何とか乗り切るも徐々に劣勢となっていきます。
これに夏侯淵は自らの軍の半分を派遣して張コウの軍を救援、ここで劉備のナイスブレーン・法正が「夏侯淵の方を攻撃するように」と進言、ここで先陣に立候補した黄忠と法正に、劉備は夏侯淵の軍を攻撃するように命じます。
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夏侯淵、定軍山に散る
ここで弓の名手と名高い夏侯淵と、(三国志演義で)関羽と名勝負を繰り広げた黄忠の手に汗を握るような熱い戦いが繰り広げられる……というイメージとは少し違うものの、夏侯淵はこの戦いで戦死することになりました。
実際の記録では黄忠の軍が夏侯淵の本陣から離れた所にあった逆茂木を焼き払い、これに夏侯淵自身が修復に出向いてしまいました。これを夏侯淵の後ろの高所に、黄忠の軍が「強引に」登って奇襲をかけ、高所を取られた夏侯淵の部隊は身動きが取れずに壊滅、討ち取られたとなっています。ここ定軍山にて、夏侯淵は三国志の舞台から退場となったのでした。
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曹操、夏侯淵の身を危ぶむ
後、曹操はこの漢中を奪回しようとするも、それは成し遂げられることなく終わりました。これにて劉備は漢中の地を得て、漢中王、となったのです。この猛将・夏侯淵の死は魏軍においても衝撃であったようなのですが、曹操は以前より夏侯淵の勇猛さを称えつつも、その身を案じていたとも言います。
正史三国志の夏侯淵伝においても曹操は以前から常に戦に買った夏侯淵に対して「将に必要なのは勇猛さばかりではない、時には臆病さも必要である。行動する際には知略も用いるように」と苦言を呈していたと言うのです。
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夏侯淵の死因は戦死!迂闊さか?それとも勇猛さか
では夏侯淵の死因とは。直接的な死因となると「斬られたこと」になりますが、それはまた別のお話となります。死の要因、として考えると「逆茂木を修復に自ら赴いたこと」になるでしょう。それを「勇猛さ」と取るか、それとも「迂闊さ」取るか……もしくはそう言うことを部下任せにできない「責任感の強さ」と考えるか……と言うところで、ちょっとこちらの逸話を。
これは夏侯淵の戦死の報を受けた曹操が怒って零したとされる言葉。「夏侯淵は元々戦の駆け引きが得意でなく、味方から白地将軍と呼ばれていた。指揮官が自ら戦うものではないのに、ましてや自ら逆茂木を修復に行って戦死するとは!」この曹操は夏侯淵の指揮官としての自覚の薄さ、その行動の迂闊さを怒っている訳ですね。
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夏侯淵が呼ばれていたという「白地将軍」という言葉とは
ここで気になるのは「夏侯淵が味方から白地将軍と呼ばれていた」というものです。まあ文章の流れを見ても、良い意味合いで呼ばれているということはないでしょうが……ここで少々問題が。
白地将軍、という言葉の意味がどれほど探しても筆者は明確な資料と共に見つけることができませんでした!(すみません)調べてみると出てくる意味としては「頭が悪い」「おバカ」「脳筋」「血筋だけで重職に付いている無能」……と、中々にひどい意味だということは察することはできましたが。
「白地」の意味としては「建造物が何も建っていない土地」という意味が有るので、そういう意味で考えると「経験もないのに重職に付いている」という意味から、縁故採用者への非難的な意味も含んでいたのかもしれませんね。
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白地将軍という呼び名はどこから生まれたのか?
じゃあ白地将軍が良い呼び名じゃなく、夏侯淵がそう呼ばれていたことを曹操が知っていたと言うと何かそれはそれで問題になりそうなのですが、ここでもう一つ気になる点が。この白地将軍の件は、正史三国志にはありません。
もちろん、註釈で有名な裴松之先生の添えた一筆でもありません。この一文は太平御覧によると「軍策令」もしくは「魏武軍策令」にて曰く、の一文となります。この「軍策令」はともかくとしても、「魏武軍策令」は曹操の言葉をまとめたもの……となるのですが、裴松之が引用していないとなると東晋末・南朝宋初の際には見つかっていなかった書物、となるのです。
こうなるとやや信憑性が薄れ、もしかするとその後の世での、夏侯淵へのヘイトによる捏造……という可能性も出てきます。何にせよ、この白地将軍という呼び名は他の文献でも注目していきたい呼び名でもありますね。
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曹操と夏侯淵
さて曹操と夏侯淵ですが、まだ曹操が若かりし頃、夏侯淵は曹操の罪の身代わりとなり、刑罰に欠けられそうになった経験があるというエピソードがあります。また魏略によると、夏侯淵は飢饉の中で自分の幼い子を捨て、死んだ弟の娘を養育したという話も伝わっていますね。
これと定軍山で張コウの軍の救援に自分の軍を裂いたり、逆茂木の修復に自ら出向いたりするところを見ると、夏侯淵は迂闊さと共に、義理堅く、仲間想いでありつつも、自身を犠牲にすることに余り頓着がない性格であったのかな、と感じました。
そうなると曹操の
「時には臆病さも必要である」
という言葉は、己の身も案じて欲しい、という曹操の思いだったのかもしれません。そう考えると定軍山で夏侯淵の死を聞いた曹操は……嘗て自分の身代わりになろうとした夏侯淵を思い起こして怒りの言葉を漏らしたのは、案外あり得る話ではないか、と筆者は思いました。
三国志ライター センのひとりごと
これは余談中の余談となりますが、某ゲームの夏侯淵が筆者は大変お気に入りでして。ふとあの夏侯淵を見ていると、迂闊な、それも指揮官がやるべきではない行動の果てに戦死したとなると、ついつい怒りの言葉も出てくるのではないか、と思ったのが発端です。しかし白地将軍という呼び名と言い、盲夏侯という呼び名と言い、魏軍ちょっとデリカシーに欠けている所があるんじゃないか?とも思ってしまいますね。
まあ後の皇帝が于禁にあんなことやらかすから……と思いつつ、本日はこれまで。ちゃぽーん。
参考:魏書夏侯淵伝 太平御覧 軍策令 魏武軍策令
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