徐庶は劉備が荊州にとどまっていた頃、一度だけ配下として加わっていた時期がありました。しかし徐庶は劉備が荊州から去った時、劉備に従わないで、曹操の配下となり、その後劉備の配下に戻ることはありませんでした。
上記は正史三国志でも紹介されていますが、もし徐庶が劉備の配下のままでいればどうなったのでしょうか。今回は黒田レンの妄想モード全開で三国志のIFストーリーをお送りしたいと思います。
史実の徐庶はどうして劉備から離れたのか。
黒田レンの妄想ワールドを語る前にどうして徐庶が劉備の元を離れなくてはならなかったのか。この原因について紹介したい思います。
それは徐庶の母親が曹操軍の捕虜になってしまったためです。徐庶の母親は劉備達が曹操軍の追撃を逃れる逃避行についてきていました。
しかし長坂の戦いで徐庶の母親は曹操軍の捕虜になってしまいます。徐庶は母親が曹操軍の捕虜になっていることを知り、母親を助けるために劉備の元を離れていく決意をし、その後曹操の配下となってしまうのです。
上記の理由から徐庶は劉備の元を離れていくことになりますが、今回は徐庶の母親が曹操軍の捕虜にならない世界で、劉備の家臣のままでいる徐庶に妄想を膨らませたいと思います。
徐庶がいれば蜀で龐統が死ぬこともなかった!?
もし徐庶が劉備の家臣のままでいれば、龐統が死ぬことはなかったと思います。なぜ徐庶がいれば、龐統が亡くならずに済んだのか。
それは龐統が亡くなった原因である蜀攻略戦に彼を連れて行かず、蜀攻略戦には徐庶を軍師として連れて行くことになるからです。なぜならば徐庶の方が龐統よりも知名度が低く、劉璋を油断させることができるからです。そのため劉備は徐庶と一緒に蜀攻略を進めていくことになるでしょう。
劉備は蜀を攻略した後、諸葛孔明を蜀に呼んで、龐統には関羽と一緒に荊州の守備を任せることになります。
劉備軍北伐開始
劉備は蜀攻略後、史実と一緒で漢中攻略に赴いたはずです。この時の劉備軍の軍師は徐庶と法正のダブル軍師で漢中攻略を行います。その後劉備軍は荊州を守っている関羽・龐統ペアと連動して北伐を開始。劉備は曹魏を討伐する北伐戦を開始知る前に徐庶を孫権へ派遣して、荊州問題を解決させる手はずを整え、孫権との同盟を強固な物にするはずです。
このように孫権へ手を打てば、史実でおきた孫権の裏切りはかなり少ない可能性になったはずです。そして孫権が裏切らない状況を作り出すことができれば、孫権が荊州へ攻撃しないで、曹操軍を討伐するために軍勢を北上していくことになったでしょう。
曹操軍はどう動く
さて対する曹操軍です。劉備率いる蜀軍が長安へ向けて進軍し、関羽率いる荊州軍が曹魏の北荊州へ攻撃。そして孫権率いる軍勢が合肥へ向けて出陣。
こうなった場合曹操はどうするのでしょうか。レンが考えるパターンは二つです。
一つ目は曹操が関羽軍と劉備軍、そして孫権軍が北上してきたことを知ると3つの軍勢を相手にしなくいといけません。曹操に三つの戦線を同時展開するほどの兵力はないと考えます。そのため曹操は三つの軍勢と戦うことの不利を悟って、華北へ撤退していった可能性がかなり高いといえるでしょう。
そして二つ目は曹操が華北へ撤退しないパターンです。曹操は魏の領土である西涼を放棄して関羽軍と孫権軍との対決に全力を注ぐかもしれません。そして関羽軍と孫権軍に全力を注いでいる間、長安の守りを固めて劉備軍の攻撃を防ぐパターンが考えられます。どちらのパターンにしろ徐庶一人が劉備軍に残っていれば、劉備の勢力にとってかなり有利な状況を作り出すことができた可能性が高かったのではないのでしょうか。
三国志ライター黒田レンの独り言
今回は黒田レンの妄想ワールド全開でお送りしました。徐庶が劉備軍に残っただけでこれだけの可能性が広がるのです。歴史にもしは禁忌ですが、妄想するだけならただなので、皆さんももし暇があれば妄想に浸って見るのもいいのかもしれませんよ。
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