没年は分かっていますが、生まれた年が不明の魏延。劉備の配下であり、功績もあるのに実にミステリアスな武将です。魏延と劉備が出会うまでを紹介しつつ、魏延のif三国志を考察します。
韓玄って、誰?
韓玄は曹操の配下で、長沙太守(現在の湖南省)でした。現在も「長沙」は湖南省の省都です。分かりやすくいえば、日本の県知事のような地位を韓玄は持っていました。そこに仕えていたのが黄忠と魏延の二大巨頭です。
魏延は曹操の部下の部下だった!?
上司を韓玄に持ち、魏延と黄忠は同僚のような関係でした。また、仲もすこぶるよかったようです。
韓玄は曹操が荊州を制圧したときの長沙太守でしたから、その部下である魏延や黄忠も曹操サイドだったのです。もっとも間接的なものでしたから、魏延にとって曹操は本社の社長。身近な支店長・韓玄の方がよく素性を知っていたのでしょう。
黄忠は魏延の友達
偃月刀を武器にする黄忠と魏延。豪胆な武将として気が合ったのでしょう。
二人は桃園の契りを交わした劉備、関羽、張飛のように固い絆で結ばれていました。
魏延はどうやって劉備に会ったのか?
あの赤壁の戦いで波に乗った劉備。
北の曹操を赤壁の地に近い荊州一帯から遠ざけることに成功します。魏延のいた長沙は荊州より南にありますから、当然、劉備も我が物にしようと長沙へと足を延ばします。そこで劉備と魏延との接点が生じるのです。
手始めに劉備は関羽を長沙へ派遣。曹操軍として応戦したのは魏延の友達の「黄忠」でした。
無二の親友が武神・関羽と勝負するとあって魏延も気が気でない様子。
ところが黄忠が関羽の兜に矢を射るだけで、追い払ったことから上司の韓玄は黄忠の内通を疑います。実は、この応酬には伏線があります。
黄忠が出陣した際、馬がつまずいて転びそうなったとき関羽は殺さずに手を止めたというのです。
これに武将としての恩義を感じた黄忠は二度目の出陣で関羽の兜に矢を射ることで彼に撤退させるチャンスを与え、ここで義理を返しているのです。
そんな事情など露知らず、上司の韓玄は黄忠を捕らえるよう命じ、処刑させようとします。これに逆上したのは友達の「魏延」。民や兵士を率いて非道な行いをする支店長を退治するのです。そのまま魏延は頼りない曹操サイドを見限って、劉備に長沙の城をあっさり明け渡します。
劉備が赤壁の戦いで敗北していたら
劉備は赤壁の戦いで曹操軍を荊州一帯から北へと追いやることに成功しました。それが契機となり、魏延のいる長沙へと押し入ったのです。
曹操や孫権と違い、流れ者の劉備は居城と言える場所がありませんでした。転戦に転戦を重ね、人のつながりや忠義によって心をつかんでいくのです。そのため、曹操軍が勝っていれば、劉備は「新野城」に引き返していたでしょう。
曹操軍の荊州や長沙での権勢もそのままで兵力を削がれた劉備は曹操軍に飲み込まれていたはずです。
理由は「地の利」にあります。劉備のいた新野城は現在の河南省。河南省を流れる黄河より北側は、すでに曹操の支配が及んでいました。
そして南に目を向けると赤壁や荊州、さらに南に行けば「長沙」も曹操の手の内になるわけです。曹操ならば劉備を従えて、江東の孫権をけん制したはずです。
魏延もそのまま曹操サイドのままとなります。もっとも曹操も忠義のある武将が好きでしたから、魏延も重用されたに違いありません。
三国志ライター上海くじらの独り言
あまり知られていない魏延と黄忠の仲、そして劉備が赤壁の戦いで敗北していた場合のif三国志を考察してみました。一族郎党を抹殺してしまうこともある中国の王朝ですが、三国時代はの強い武将はみな生き残りました。
それは、たとえ敵であっても腕の立つ武将は尊敬され、仲間に引き入れることが日常茶飯事だったからです。
少し日本的な考え方と異なる印象を持った読者もいるかもしれません。しかし、太平洋戦争で戦ったアメリカ合衆国の文化であるハリウッド映画やコーヒーを受け入れている現状を見ると腑に落ちるでしょう。
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