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[長安の魅力]漢王朝の都、中学生にもわかるその歴史と文化

2023年9月8日


長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

中国の古代都市の中でも

長安(ちょうあん)の名を知らない人は少ないのではないでしょうか。

長安は平安京のモデルになった都市として

中学校の教科書でも紹介されていますからね。

そんな長安の歴史は

前漢王朝から始まっています。

 

今回は

長安とはどのような場所なのか

どのような歴史を持つ都市なのかを

徹底解説していきます。

 

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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長安は現代の西安市にあたる都市

 

現代中国地図には

長安という都市をいくら探しても

見つけ出すことはできません。

 

実は、

長安は明代に至って

西安と名を変えてしまったのです

 

西安は現在陝西省の省都であり、

大きな自主権を持つ副省級市にも指定されている

中国でも有数の重要な都市となっています。

 

 

 

前漢の都は長安じゃなかった可能性!?

劉邦

 

劉邦(りゅうほう)がライバル・項羽(こうう)を下し、

漢王朝を建てることになった際に

都として選ばれた長安ですが、

前漢の都が別の都市になっていた

可能性もあったようです。

 

最初に劉邦が都の候補と考えていたのは

秦の都である咸陽だったようですが、

咸陽は戦乱によって壊滅状態。

 

そこで今度は

周の都であった洛陽を都にしようと考えたようですが、

婁敬(ろうけい)張良(ちょうりょう)

咸陽近郊は天然の要害に守られている

素晴らしい場所ですぞ!

と猛プッシュしてきたために

咸陽近郊に新たな城を築き、

長安と命名して都に定めたのでした。

 

周や秦といった

歴代王朝の都を踏襲するというのが

その当時の一般的な考え方だったのでしょうね。

 

もしも咸陽が壊滅状態ではなかったら

漢の都は秦と同様

咸陽になっていたのかもしれません。

 

 

漢代の長安は碁盤の目になっていなかった

 

長安といえば平安京のモデルとなった都市ですから

碁盤の目のような都市が形成されていたイメージが強いですよね。

ところが、

碁盤の目のような都市ができたのは

隋唐代以降の話

 

漢代の長安は

「都市計画?なにそれ、おいしいの?」

とでも言いたげな

滅茶苦茶な街並みが広がっていたそうです。

 

ただ、ちょっとしたこだわりはあったらしく、

長安の南は南斗六星、

北側は北斗七星の形をしていた模様。

 

漢王朝の国号である「漢」も

天の川を表す漢字ですし、

その当時は天と地は対応するものだと考えられていたために

星空を模した都市がつくられたのでしょう。

 

長安の城内には

長楽宮、未央宮、北宮、桂宮などの宮殿が建てられ、

城外に通じる十二の門が設けられていたようですが、

これらにも何かしらの星が充てられていたのかもしれませんね。

 

 

後漢代にもう一度長安遷都が考えられた!?

 

 

前漢王朝が王莽(おうもう)の簒奪によって倒された後、

王莽は新王朝を建てました。

しかし、

周王朝を理想とする王莽の姿勢に

多くの人が困惑し、

あちこちで反乱が勃発。

 

新王朝はわずか15年で幕を下ろし、

漢王朝が息を吹き返すことになりました。

後漢時代の幕開けです。

 

後漢王朝の初代皇帝である光武帝(こうぶてい)

洛陽を都に定め、

安定した政治によって

後漢王朝の礎を築きました

 

後漢代には前漢の都だった長安は西都と呼ばれ

後漢王朝の副首都的な役割を果たしていたようです。

しかしあるとき、

後漢王朝4代皇帝和帝(わてい)

何を思ったのかもう一度長安に遷都しようかと考え始めます。

 

遷都なんてすれば

莫大なお金が飛んでいく上に

人々に大きな負担がかかってしまうということで

多くの臣下がザワつきました。

 

そんな中、

班固(はんこ)がある賦を詠い上げます。

西都・長安から訪れた客を

東都・洛陽の主人が迎え入れ、

互いにそれぞれの都の良さを語り合うという内容の賦です。

 

これは「両都賦」という

『文選』にも掲載されている賦で、

「洛陽の方が素晴らしい所だよ」

ということを暗に示すことによって

和帝に遷都を諦めさせるために

詠まれたものだったと言われています。

 

もしも

班固が「両都賦」を詠わなかったら

長安への遷都が実現されていたかもしれませんね。

 

ただ、

後漢末の動乱期には董卓(とうたく)によって

長安に遷都されてしまうという

ハプニングも起こっていますが…。

 

その後も多くの王朝の首都に

 

長安は漢王朝の後にも

多くの王朝の都となりました

 

五胡十六国時代の前趙、前秦、後秦や

南北朝時代の西、北周、

そして隋、唐が挙げられます。

 

おそらく多くの王朝が

漢王朝の栄光にあやかろうと考えて

長安を都に定めたのでしょうね。

 

三国志ライターchopsticksの独り言

三国志ライター chopsticks

 

長安は時代を経るごとに

どんどん姿を変えていきました。

あまりの変身ぶりに

多くの人が驚くことでしょう。

 

しかし、

よくよく考えてみれば

昔のまま変わらない都市を見つける方が

存外難しいのかもしれませんね。

 

皆さんが住んでいるところも

昔と今では随分印象が違うのではないでしょうか。

 

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清朝考証学を勉強中。 銭大昕の史学考証が専門。 片田舎で隠者さながらの晴耕雨読の日々を満喫中。 好きな歴史人物: 諸葛亮、陶淵明、銭大昕 何か一言: 皆さんのお役に立てるような情報を発信できればと思っています。 どうぞよろしくお願いいたします。

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