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[漢王朝の地図]現代の中国との驚きの共通点と変化

2023年11月19日


 

毛沢東(もうたくとう)

 

現在世界3位の国土を誇る中国(ちゅうごく)ですが、その国土はいかにして形成されたか皆さんはご存知でしょうか?

 

実は、現代の中国地図の基礎ともいえる領土は漢王朝(かんおうちょう)御代(みよ)に形成されていたと言われています。漢王朝はいかにしてその領土を拡大していったのでしょうか?

その軌跡を追ってみましょう。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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秦の領土は現代の中国地図の半分も無かった?

キングダム 戦国七雄地図

 

 

初めて中華統一を果たした王朝といえば(しん)ですよね。しかし、中華統一と言っても現代の中国の領土の全てを手中に収めたわけではありませんでした。現代中国地図に重ねてみればその差は歴然。秦の領土は現代の中国地図の半分以下、もしかしたら3分の1ほどしか無かったようです

 

 

凡人すぎた楊雍(はてな)

 

そのような状態から、現代地図レベルにまで領土を拡大したという漢は一体どのような方法で領土を広げていったのでしょうか?

 

 

 

長安を都として中原一帯に君臨

劉邦の息子を補佐する曹参(そうしん)

 

楚漢(そかん)戦争で項羽(こうう)を下し、天下に君臨することになった劉邦(りゅうほう)。彼は元々漢王として漢中に封ぜられていましたが、心機一転、長安(ちょうあん)を都に定めて政を行いました。

 

 

劉邦と陳平と張良

 

長安は現代の陝西省西安市。中国のド真ん中に位置する都市です。劉邦は都・長安を中心に中原一帯を直接統治し、日本海に接する東側の地域一帯を諸王侯に統治させました。この頃の漢の領土は秦の領土よりも狭く、国力がそれほど備わっていなかったことが窺えます。

 

 

武帝の時代に支配領域が最大に

漢帝国の宿敵で匈奴の名君(匈奴族)

 

匈奴(きょうど
)
を中心とする異民族と
押し合いへし合い領土を奪い合っていた漢王朝ですが、武帝(ぶてい)の時代に領土を一気に拡大していくことに成功します

 

城 銅雀台

 

対外遠征に積極的だった武帝は東は朝鮮半島、南は現代のベトナム、西は現代のキルギスあたりまで領土を広げ、漢王朝は全盛期を迎えました。しかし、武帝は北西方向への進行を積極的に行い、チベット高原のあたりはノータッチだったため、現代の中国地図の形に近づきはしたものの南西側がぽっかり空いた状態の歪な形の領土が出来上がったのでした。

 

 

王莽の簒奪後独立勢力が現れるも再統一を果たす

光武帝(劉秀)

 

前漢王朝が王莽(おうもう)の簒奪によって倒れた後、程なくして後漢王朝が立てられましたが、光武帝(こうぶてい)が即位したからと言って武帝が獲得した領土をそのまま継承することはできませんでした。

 

 

 

なんと巴蜀で蜀王を自称して「成家」なる国を建てた者が現れたのです。そのため、光武帝の最初の仕事は巴蜀はしょく)の奪還になりました。

 

 

スピリチュアルにハマる光武帝

 

10年ほどの歳月を要したものの、光武帝は見事巴蜀を制圧。後漢王朝による中国の再統一が成し遂げられたのでした。

 

 

後漢末期には見事バラバラにされてしまった領土

宦官

 

 

外戚(がいせき)VS宦官(かんがん)の戦いにより滅茶苦茶になってしまった後漢末期(ごかんまっき)黄巾の乱(こうきんのらん)が起こってからは群雄と呼ばれる者たちが現れ、各地に軍閥が出来上がります。

 

 

メタ認知について学ぶ袁術

 

群雄たちは漢王朝から領土を頂戴したという体裁をとっていたものの実際は好き勝手に欲しい領土を自分のものにしていました。

 

 

太行山に入り山賊になる劉備三兄弟

 

結果的に戦国時代を彷彿とさせるほど漢の領土はバラバラになってしまったのですが、群雄たちも淘汰されていき、劉備(りゅうび)曹操(そうそう)孫権(そんけん)の勢力だけが残ります。

 

 

 

三つ巴の様相を呈し、いよいよ再統一の日も近いかに思われましたが、再統一が果たされる前に

 

 

漢李カク・郭祭り78 献帝

 

 

後漢最後の皇帝献帝(けんてい)曹丕(そうひ)に禅譲を迫られたことによって漢王朝は滅亡してしまったのでした。

 

 

斉王になる司馬攸

 

 

その後、三国時代を経て司馬炎(しばえん)を中心に西晋(せいしん
)
によって中華統一が果たされたものの、
漢王朝ほどの領土を得ることはできなかったようです

 

 

 

三国志ライターchopsticksの独り言

三国志ライター chopsticks

 

現代の中国地図と漢王朝全盛期の地図とを比べてみると確かに中国地図の大枠は完成していたようですが、やっぱりまだまだ小さかったのだなと思いますよね。やっぱりチベット高原のあたりがぽっかり空いているのが気になっちゃいます。チベット高原が中国地図に組み込まれるのは清代になってからなので、現代の中国地図とほぼ変わらない領土が完成したのは清代と言えるでしょう。

 

 

武帝は前漢の第7代皇帝

 

それでも、漢王朝の武帝が西域を支配していなければ現代の中国地図の形はまた違うものになっていたのではないでしょうか。

 

 

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清朝考証学を勉強中。 銭大昕の史学考証が専門。 片田舎で隠者さながらの晴耕雨読の日々を満喫中。 好きな歴史人物: 諸葛亮、陶淵明、銭大昕 何か一言: 皆さんのお役に立てるような情報を発信できればと思っています。 どうぞよろしくお願いいたします。

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