孟獲の右腕として諸葛亮率いる蜀軍と戦った忙牙長。水牛を乗りこなし、暴れまわったそうです。しかし、巨体の水牛を操れるほどの人物が、どうして蜀軍に敗北したのでしょうか。それでは水牛と忙牙長のストーリーを紹介していきます。
なぜ忙牙長は水牛を操れたのか?
水牛は中国で8000年近く前から飼われており、とても身近な動物でした。野生の水牛はほとんどなく、三国時代にも当然のように家畜として飼われていました。水牛は重要な労働力で水田で鋤を引くだけでなく、乳や肉、皮まで売買されるほど貴重な財産だったのです。
水牛は大きいもので体長は3メートルに達し、体重は1トンほど。三国時代の豪傑といえども操るのは相当な腕が必要だったはずです。
一方で性格は大人しく、水遊びも好きなことからフレンドリーな動物でもあります。現在も家畜として中国やインドを中心に1憶頭以上飼われ、家畜および労働力として重宝されています。図体こそ大きいものの三国時代から南蛮には水牛を操る知恵があり、忙牙長が操っていても何ら不思議ではありませんでした。
忙牙長、王平を破る
ほとんど字を書けなったといわれる王平。南蛮制圧で水牛に乗った忙牙長に敗れてしまいます。泣く泣く敗走する王平ですが、一枚上手だったのは王平サイドの趙雲たちでした。
孟獲とともに王平を追撃した忙牙長は罠にかかります。負けたかに見えた王平の裏で待ち構えていたのは”趙雲、張嶷、張翼”の三傑でした。大将の孟獲とともに忙牙長も蜀軍に包囲されます。脱出した彼らは、ほうほうの体で自軍に帰るのでした。
水牛で逃げる忙牙長
三国志演義で水牛とともに描かれる忙牙長。水牛に乗ったまま包囲された忙牙長が敵陣から潰走することは可能だったのでしょうか。大柄で強そうな水牛ですが、体重が重く、スピードは人間とほぼ同じです。忙牙長は敵を払いのけながら、水牛から降りて手綱を引いて逃げたと考えられます。つまり、馬に乗った趙雲ならば簡単に追いつけたはずです。
しかし、王平が負けたという事実がある以上、王平を救援するのが趙雲たちの本当の狙いだったのではないでしょうか。そのため、趙雲たちはスピードの遅い水牛を連れて忙牙長が逃げる様を悔しそうに見ていたに違いありません。
ついに敗北!?馬岱との一騎打ち
さて、諸葛亮の出番です。王平を救出した蜀軍は南蛮軍を追い込もうと物資の補給を絶つ作戦に出ます。
とても卑怯なイメージですが、戦いにおいて両軍が確保しなければならないのは”兵士の食糧”です。十分な食糧が確保できなければ、兵士の士気が下がり、戦局にも影響してきます。三国時代において敵の補給線を絶つのは、当然の計略でした。
当時の南蛮軍の補給線、つまり物資を輸送するためのルートは「夾山峪」でした。峡谷というのは道が狭いため、味方を潜伏させ、敵へ襲いかかるに絶好の場所だったのです。ほどなく蜀軍は夾山峪を封鎖することに成功します。
これは何としても確保しなければと忙牙長は孟獲の指示で夾山峪の馬岱退治へと向かいます。水牛に乗って……。
水牛の大軍であってもスピードが遅いので、馬岱には危機感がなかったのでしょう。馬岱は忙牙長との一騎打ちを申し出ます。
中国の戦で軍と軍が衝突する際、リーダー格の武将が歩み出て本戦の前に対決することがあります。そして、引き分けになれば、本戦に突入します。しかし、どちらか一方が相手の首を取ることができれば、そこで勝負は決します。軍同士が戦うことはありません。大勢の部下が見守る中、忙牙長は馬岱と一騎打ちに出ます。水牛に乗った忙牙長と馬に乗った馬岱。勝負は一瞬でした。馬岱が忙牙長の首を切り落とし、戦いは終結します。
孟獲のように不死の術は使えないので、忙牙長は水牛と共に葬られたことでしょう。
三国志ライター上海くじらの独り言
水牛を武器に戦う忙牙長ですが、補給線を絶たれた後も連れてきた水牛を食糧にすれば勝機はあったかもしれません。いずれにしろ諸葛亮の策が南蛮軍を上回っていたことが伺えます。その後の三国志演義にも水牛が登場しないことから、やはり水牛は戦闘には不向きだったのでしょう。
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