さて、孔明と言えばやはり有名なお話は「三顧の礼」ではないでしょうか。まだまだ無名な孔明を、劉備が何度も(だいたい三回くらい)で勧誘するお話です。三国志を良く知らなくても三顧の礼は知っている、という人も少なくはないのではないでしょうかね?
今回のテーマはこの三顧の礼。実は三顧の礼って……あの人もされたお話なんだよ!ということも合わせてご紹介したいと思います。
この記事の目次
「三顧の礼」という故事成語の生まれ、礼を尽くす心
まず三顧の礼ですが、これは故事成語です。そして故事成語とは「故事」、昔にあった出来事から「成語」、成り立った言葉ということ。更に言うとこの言葉を日常として用いるような言葉、のことを故事成語というそうです。昔からの言葉、つまり有難く為になるお話ですね。三顧の礼は孔明と劉備のやり取りが主となっていますが、そこには礼を尽くす心、誰かを自分の味方として招くことの心構えを説いているともされています。
諸葛孔明と三顧の礼 ちょっと劉備君しつこくなーい?
ここで三顧の礼についておさらいを簡単にしておきましょうか。
劉備は世に出でて何かを成すために人材が必要!となっていた時期。そこに諸葛亮の知り合いの徐庶が来て、もしくは探していた最中で諸葛亮の先生である司馬徽先生が、諸葛孔明の話をします。
ここで劉備は諸葛亮を勧誘するために、三度に渡って諸葛亮を尋ねました。つまり三顧、礼を尽くした訳です。因みに時代的に考えて身分、年齢を考慮すると劉備の対応は破格だったとも言われ、ある意味、諸葛亮も断りにくい所もあったのかな……なんて考えてしまいました、邪推ですね、すみません。
原文で見る三顧の礼!出師表から確認できる諸葛亮の思い
ここで諸葛亮の出師表から、三顧の礼を読み取れる辺りを見て頂きたいと思います。
「先帝不以臣卑鄙、猥自枉屈、三顧臣於草廬之中、諮臣以當世之事。由是感激、許先帝以驅馳」
原文からも、三顧の礼の「三顧」の部分が見られますね。これには諸葛亮が、劉備から受けた礼について如何に感動したか、それについて触れられています。この出会いがあったからこそ、諸葛亮は劉備に尽くし続けたのでしょう。
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三顧之礼とはどういう意味?「礼」だけではなかった?
さて、ここで三顧の礼、もしくは三顧之礼について、大事、と思われる部分を再確認したいと思います。三顧の礼は、前述したように「礼を尽くす心」の重要さを表しています。この礼とは、劉備が諸葛亮を何度も尋ねたこと、に他なりません。
身分としては劉備の方が上、であるにも関わらず、未だ無名である諸葛亮を尋ねた。「頭は立場が上の人間こそ下げる意味がある」なんて言いますが、それが決して間違い出ないという事を教えてくれているとも言えるでしょう。もちろん「立場が下だから偉そうにしていていい」なんて話ではありませんが、重要な立場だからこそ礼は忘れない、それを現代に伝えているのかもしれませんね。
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「三顧の礼」の逸話とは そこから始まるドラマ
ちょっとここで考えてみたいのですが、三顧の礼の逸話に関して、全く別の見方をしてみようか、ということ。もちろん礼を尽くす心として、逸話として、故事成語として三顧の礼は素晴らしい〇台とも言えますが、これを物語、と見てみるのはどうでしょうか。
三国志演義でも欠かせないこのシーン、正に名シーンの一つです。劉備の仁徳、二人の英傑の出会い、更にはその片方亡き後にまで語り継がれる思い出……やはり、三顧の礼は、ドラマのスタートとしても素晴らしいと思います。そういう意味も含め、三顧の礼は後世にまで語り継がれたのではないでしょうか。
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諸葛亮と劉備との出会いを由来とした三顧の礼、後の世まで……?
三顧の礼をただドラマチックと称しましたが、名将と名将が出会うにはドラマが付き物。
こちらは創作ではないかとも言われていますが、かの有名な太公望もまた、文王と出会った時に「大公が望んでいた人物だ」と言われたという話が残っているように、やはり人は歴史にドラマを見出してしまう性分なのです。なのでこの三顧の礼、後の世にまで語り継がれているだけでなく、同じように準えた出会いをしたとされる人物たちが日本にもいるのです。
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実はあの二人もまた、三顧の礼で出会っていた
その人物とは、かの有名な豊臣秀吉と竹中半兵衛。
織田信長が竹中半兵衛を家臣にしたいと何度人をやっても竹中半兵衛は首を縦に振らない。そこで信長は秀吉を行かせると、秀吉は自ら何度も半兵衛の元に足を運びました。このため半兵衛は信長ではなく、秀吉の臣下になると決めたと言います。
この話は寧ろ秀吉と半兵衛を劉備と諸葛亮に準えたように感じられますが……それでも、時と時代を超え、三顧の礼は広く世に広まっていたと、分かるような話ですね。
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三国志ライター センのひとりごと
なお、余韻がちょっと変わってしまいますが「そもそも三顧の礼は諸葛亮の方から劉備を訪ねて言った話だよ!」という話もあります。確かにまあ、身分を考えると諸葛亮の方から訪ねていく方が筋ではあるのですが。
これに関しては我らが裴松之先生が「出師表に書いとるやろがい!!(意訳)」と反論をしているのも面白い所。果たして劉備が訪れたのか、それとも諸葛亮の方から尋ねたのか。
どう考えるかで、色々な解釈ができて面白いかもしれませんね。どぼーん。
参考:蜀書諸葛亮伝 出師表
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