中国の歴史を語る上で欠かせないのが異民族の存在です。彼らは漢民族の事情などお構いなし。突然嵐のようにやってきては国内を荒らしまわる迷惑な奴らと考えられていました。このように迷惑な存在として語られる民族は匈奴などに代表されるように北方の異民族であることが多いのですが、実は中国には南方にもちょっと困った異民族がいたのだとか…?今回は中国の南にいたという異民族をご紹介したいと思います。
北と南で異なる異民族模様
(漢の時代の中国領土:国境線はいい加減です)
現代の中国の地図を見ると北にはモンゴル高原、西にはゴビ砂漠やタクラマカン砂漠が広がり、南にはチベット高原とヒマラヤ山脈、そしてヒマラヤ山脈の東の裾野にはジャングルが広がっていることがわかります。北方や西方は農耕に適さない寒くて乾燥した地域であったため、その地域に住む異民族たちは狩猟や遊牧をすることによって生計を立てていました。
ところが、狩猟や遊牧は農耕に比べると食料を安定して供給することができません。そのため、北方や西方に暮らす異民族は食糧不足に度々悩まされることになります。その結果、北方や西方の異民族は中国国内に侵入して略奪することを繰り返していたというわけです。それに比べ、南方の異民族は比較的豊かな環境で過ごしていたためにわざわざ中国国内に食料を掻っ攫いに出かける必要はありませんでした。
漢民族と同じように農耕牧畜に励みながら、更に自然に実る果実なども大量に採集できたわけですから、もしかすると食料面では中原よりも恵まれていたかもしれません。しかし、『三国志』では北方の異民族と同様に煩わしい奴らとして描かれている南方の異民族。彼らはなぜ漢民族にとって鬱陶しい存在だったのでしょうか?
山越に手を焼いた呉
呉の孫策は亡き父の後を継いで若くして孫家の頭首となったのですが、彼はなかなかの野心家でした。孫策は密かに中原進出を目論んでいたのですが、まずは力を蓄えようとその当時誰も目を向けていなかった江東地方に目を付けます。
孫策は破竹の勢いで江東地方を平定していったのですが、そのときに立ちはだかったのが山越族という異民族でした。江東地方といえば今ではすっかり中国の一部になっていますが、その当時はまだ完全に漢民族のものというわけではなかったのです。突然襲ってきて居場所を奪った孫氏に対する山越族の恨みはなかなか消えず、孫策が死んで孫権の代になってしばらく経っても山越族による反乱は後を絶ちませんでした。しかし、反乱はいずれも呉軍によって鎮圧され、山越族は徐々に漢民族と同化していったようです。
西南夷の反乱を鎮圧した蜀
劉備が死んで劉禅が皇帝に即位すると、それまで従っていた西南の異民族とその周辺の太守たちが蜀に対して反乱を起こしました。「夜郎自大」なんていう言葉を生んだ経歴のある西南夷と呼ばれる彼らはやっぱり若造の劉禅に従うのは気に食わなかったのでしょう。諸葛亮はすぐさまこれに対応したかったのですが、まずは夷陵の戦いのために不安定になっていた呉との関係修復に努めます。
しかし、蜀が呉と関係修復をしている間に反乱軍には予想外の邪魔が入り、更に内部分裂が勃発。諸葛亮はこの混乱に乗じてうまいこと戦を有利に進め、反乱軍の首領とも言える存在である孟獲を七縦七禽。西南夷を心から蜀に従わせることに成功したのでした。
あれ?むしろ迷惑を被っていたのは…?
歴史に登場すると「全く南の奴らったら困っちゃうよ…」という調子で描かれている南の異民族ですが、ちょっと「ん…?」と思った方もいるのではないでしょうか?むしろ、南の異民族はいきなり押し掛けてきた漢民族に「お前ら俺に従え!」と言われて押さえつけられてきたわけですから、迷惑を被っていたのは漢民族ではなく南の異民族の方だったと考えるべきでしょう。
そんな彼らが反乱を起こすというのは至極当然のことですよね。しかし、中国の歴史のほとんどは漢民族の手によって描かれていますから、南の異民族の心境なんて知ったこっちゃないですし、反乱なんてただの迷惑行為でしかなかったというわけです。
三国志ライターchopsticksの独り言
誰もが心の中で大なり小なり自分が1番優れていると思っているもの。その思いが誇大になったものが「漢民族は世界一イイイイ!」という中華思想だと考えるとわかりやすいかもしれません。この思想は北の異民族の脅威に対抗すべく培われたものだとも言われているようですが、もしそうだとしたら南の異民族は北の異民族のせいでとんだとばっちりを受けたということになりはしないでしょうか…?
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