蜀の創始者劉備の弟分、関羽と張飛。三国志演義の中では、関羽は劉備の軍略の相談にのるほどの知性派武将、張飛はすぐに短気をおこして暴れる脳筋武将として、対照的な描かれ方をしています。
そんな脳筋イメージの張飛がなんと儒教の経典『春秋』を読んでいたという話があるんでございます!
張飛の故郷、涿州張飛店
張飛のふるさとは幽州涿郡、現在の河北省涿州市です。涿州から西南十里の地点にある張飛店(またの名を忠義店)という村が、張飛の家のあった場所だと言われています。張飛の家といえば、劉備・関羽・張飛が義兄弟の契りを交わしたという桃園がある場所ですよね!
ふうむ、涿州の市場で知り合った三人が、ちょっと俺の家まで来て酒でも飲みましょうということで一時間も歩いて張飛の家まで行ったんでしょうかね。三国志の時代の十里はおよそ4km。googleマップで見る涿州と張飛店の間の距離もそのくらいです。
ちなみに、北京の天安門広場からは地獄の歩行訓練にちょうどよさそうな距離です。街道を通って50~60kmでしょうか。張飛店には古くから立派な張飛廟があったそうですが、文化大革命で取り壊されたそうです。残ったのは肉をさばいて暮らしていた張飛が生肉を貯蔵するのに使っていたという古井戸のあとと、石碑だけだったそうです。現在建っている張飛廟は1991年に再建されたものです。
故郷・涿州の博物館のホームページにある仰天情報
涿州博物館のホームページにある「张飞与张飞店」という紹介文によれば、張飛の家は決して貧しいほうではなく、張飛は七歳から家庭教師をつけられていたそうです。小さい頃から気性が激しかった張飛。何人もの家庭教師が張飛に腹を立てて出て行くか、張飛によって追い出されました。張飛の母方のおじの李志という人が王養年という武将を張飛の先生として推薦したところ、張飛はやっと心服したそうです。
知略と武略に通じていた王養年は張飛に文武両道の手ほどきをし、張飛は十三歳で『春秋』を読み、『左氏伝』を参照し、『孫子の兵法』に精通し、武芸にも熟達したそうです。
……えええ~、これじゃあ完全に知性派武将じゃないですか!?三国志演義の、徐州で酒飲んで城を失った粗忽な張飛のおもかげはどこにもありません!
書画にも造詣が深いキラキラ武将、張飛
張飛は勉強をして賢くなるにつれ、世の中のありさまに不平を覚えるようになり、天下をうち平らげて民衆を救うのだと息巻くようになったそうです。張飛のゆくすえを心配した王養年は、情操教育として張飛に書道と美人画を練習させ、三年で名人の域に達したそうです。張飛の書法には独特のスタイルと風格があり、張飛の書いた摩崖字(崖や大石に書き記した文字)は後世の人たちに賞賛されたそうです。清代の文人・紀昀(『四庫全書』を編纂した人)は次のように詠んでいるそうです。
慷慨横戈百戦余、桓侯筆札定然疏。哪知拓本摩崖字、車騎将軍手自書。
(意味:戈を持って奮戦していた張飛のことだから字なんてヘタクソなんじゃないか
と思いきや、拓本になっているこの素晴らしい摩崖字は張飛が書いたものなんですぜ!)
※桓侯は張飛の諡号(死後におくられた号)、車騎将軍は生前の役職、哪は疑問代詞
張飛の絵画は漢代の画家曹不興に比肩しうるほどだったそうで、『歴代画征録』に「張飛:漢の涿州の人。美人画の名人」と記載されているそうです。(『歴代画征録』という書物が確認できないのですが……)
三国志ライター よかミカンの独り言
涿州博物館の記事の全訳を私の個人のサイトの雑記ページに掲載しておりますのでご興味のある方はそちらもご参照下さい。(涿州博物館におうかがいメールを送ったうえで掲載しています)
そのサイトで連載している小説『ショッケンひにほゆ』では張飛の元部下という人物を通して間接的に張飛の人物像を描くという試みをしておりますので、そちらもご興味があればご覧いただけると嬉しいです。(宣伝)さて、張飛インテリ説。故郷・涿州の博物館で紹介されている逸話ということで、地元出身の有名人をありったけ良く書いているのではないかなと一瞬思ったのですが、涿州博物館以外でも同様の情報を載せているサイトはたくさんありました。中国では有名な話なんでしょうか。知らなかったです!
画像を検索していたら、張飛の書といわれる摩崖字として「張飛立馬銘」(または八蒙摩崖)というものが出てきました。真筆かどうかはまだ考証されていないそうですが、見たところ、三国時代っぽい楷書のはしりのようなくっきりとした力強いタッチで端正に書かれており、もし本当に張飛がこんな字を書いていたとしたら惚れてまうやろ!という印象を受けました。
魏の鍾繇や呉の朱然の書も画像検索で出てきますので、見比べてみて下さい。文字だけで “いい男ランキング”をしてみても面白いかもしれません!
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