西暦234年旧8月23日、蜀の丞相、諸葛孔明は五丈原で陣没します。この少し前に諸葛亮から後継者蒋琬の名前を聞きだして成都に帰ったのが李福です。しかし、重大な仕事を任された割に、李福の名前はほとんど知られていません。そこで、今回は諸葛亮のメッセンジャー李福に注目します。
益州梓潼郡涪県に生まれた李福
李福は生年不詳ですが、益州梓潼郡涪県に誕生しています。父は李権で益州の豪族でしたが、劉焉が益州に入ってきた時に抵抗し殺害されたという事です。劉備が益州を平定した後、書佐、西充国県長、成都令となり、巴西太守から江州都督、揚威将軍に昇進した所で劉備が病死し後継者になった諸葛亮は李福を尚書僕射、平陽侯に昇進させています。江州都督と言えば、劉備が夷陵の戦いに際して出征した拠点なので迅速な用兵に功績でもあったのでしょうか?
かなりのうっかり八兵衛だった李福
正史諸葛亮伝には、諸葛亮没の前後の事はほぼ書かれていません。五丈原の戦い前後の事は以下のような内容です。
西暦234年春、諸葛亮は大いに軍兵を率いて斜谷より出征して
流馬によって輸送し武功の五丈原に拠点を置いて渭南で対峙
諸葛亮は兵糧不足を心配して持久戦を考え兵を分けて屯田した。
軍隊は渭南の百姓に混じり耕作したが規律は厳正で
少しもトラブルを起こさなかった。
双方にらみ合う事百日余り同年8月諸葛亮は病を得て治らず
軍中で没した、時に五十四歳だった。
たったこれだけです、では、諸葛亮と李福のやり取りはどこにあるのか?
それは、益部耆旧雑記という同じく陳寿が記した書物にあります。ところが、この李福という人、尚書僕射になる割にはかなりのウッカリ八兵衛であったようです。何しろ、死が間近い孔明と会話していながら後継者の名前をウッカリ聞き忘れ、数日して「あいやしまった!」と引き返しています。それに対して孔明も予言者めいて
「ふっふっふ・・戻ってくるのは分かっていました。私の後継者なら蔣琬に任せなさい」と回答します。いやいや、笑ってる場合じゃないでしょ、途中でポックリいったら一体どうするんですか?妙に呑気な孔明さん
しかし、李福はその上を行っていました。次の後継者では満足せず、「丞相の死後、100年先までを知りたい」と無理難題を言い、蔣琬の次は費偉、では費偉の次は?と畳掛け、そこで諸葛亮はこと切れています。この部分だけを見ると、李福はとても丞相の遺言を仰せつかるような大物ではないように思えますがどうなんでしょう?
李福の評価は陳寿補正が入っていたのでは?
こんなポンコツ尚書僕射に対して陳寿は益部耆旧雑記で、李福の人となりは物事を詳しく知り、果断鋭敏で政務も敏腕と評します。これだけ見ると出来る人ですが、どうも孔明に対する対応を見るとそうとも思えません。非常時で気が動転していた可能性もありますが、どうも能力を盛られ過ぎな感じがします。実は、この益部耆旧雑記には李福に続けて子の李驤にも言及があり名声があり尚書郎、広漢太守になったとあります。この李驤と陳寿は礁周門下で元々親友同士でした。
しかし、蜀が滅んで晋が起こる頃に些細な事から仲違いし、一転して憎悪し罵り合う程の犬猿の仲になりました。どの程度の憎み屋さん度合いかというと、李驤が晋に仕官しようと運動すると陳寿はいつも全力で阻止した程その為か、李驤の名前は益部耆旧雑記には登場するものの、後に書かれた三国志には登場しません。
あるいは、益部耆旧雑記を書いている頃には、李驤と仲が良いのでその父の李福も李驤も好意的に補正して評価したものの、後に仲違いしたので三国志では李驤に触れなかったのかも知れません。
李福の最期
この李福、遺言を成都に伝えた功績もあってか、次の蔣琬政権では北伐メンバーに選ばれ、前監軍、大将軍司馬に任命され、漢中の南鄭城に駐屯していましたが238年に急死したようです。具体的にどんな功績を挙げたか不明ですが、それなりに軍人としては有能だったのでしょう。
三国志ライターkawausoの独り言
益部耆旧雑記が無ければ、季漢輔臣賛に名前が残るだけで、その後の三国志演義でも出番が無かったかも知れない地味な李福。どうみても有能とは言い難い、うっかり八兵衛な内容ですが、その分、キャラが立ったとは言えるかも知れません。
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