今回は呉の名称、程普。呉の武将の中でも特に年長者であったことから、他の者たちに敬意をこめて「程公」と呼ばれていた人物です。そんな程普の死因は一体どんなものであったのか?
ここでは明確に死因は記載されてはいないものの、実はこんな理由が予測される……そんな程普の死因についての考察も拙いながらやっていきたいと思います。実は背後にあったあの出来事、それが繋がっていく様をお楽しみください。
この記事の目次
程普ってどんな人物?その生涯と時代を追っていく
まずは程普の生涯とその功績を時代時代で追っていきましょう。程普は当初、州郡の役人を務めていました。孫堅が董卓討伐で兵を挙げると、これに従って呂布や華雄などと戦い、これらの軍を打ち破る活躍を見せています。
その死後はその子、孫策に付き従い、また幾つもの戦いに従軍しては功績を上げ、兵2000人と馬50匹を与えられて更に手柄を立て続け、その飛躍に貢献しました。丹陽郡での戦いでは敵に包囲された孫策を救出するなど、その功績には目を見張るものがあります。
若き孫権を支える日々、そして赤壁の戦いでは
孫策の死後は孫権を支えることになります。孫家を受け継いだばかりの孫権はまだ若く、そんな若輩には従わない!という地域もあったのですが、その平定に向かい孫家の安定に尽力する程普。江夏征伐では別働隊を率いて孫権を支え、また太史慈に代わって海昏の守備につき、そうしていよいよ孫家の大一番、赤壁の戦いが始まります。
程普はここでは周瑜と共に烏林において曹操軍を敗退させ、更に南郡では曹仁を敗走に追い込みました。呉主伝では「周瑜と程普を左右の督とし、各一万の兵を領させ、劉備と共に進軍し赤壁で曹公を大いに破った」と書かれているので、程普の活躍がどれほど大きかったか分るでしょう。
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程普ってどんな人?その性格は意外にも……
さて、そんな程普ですが「風貌が優れ、先を見通す力もあり、人との応対も巧みにこなした」とされています。孫堅に付き従った古参メンバーでもあり、その中でも最年長だったことから諸将からは「程公」と呼ばれ尊敬されていました。見目が良く、先見の明があり、コミュ力も高い、更に武勇も兼ねそろえているという完璧超人ですが、実はそんな程普にも「合わない人間」がいました。
それこそが周瑜です。お互い文武両道のイケメンなのですが、古参の程普からすると若輩で台頭してきた周瑜とは折り合いが悪かったようですね。しかしそこは周瑜、年長者である程普を敬い、謙虚な態度で接していたことから程普も態度を改め、認めて敬意を払うようになったそうです。年長者であるとともすれば意固地になりがちですが、自分の態度を改めるようになった程普はやはり人柄にも優れていたのでしょうね。
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三国志演義での程普 重要な役回りを常にこなす
さて、三国志演義での程普も見ていきましょう。
三国志演義では程普は勇猛果敢な武将として描かれ、孫権と共に華雄の副将である胡軫を一騎討ちで討ち取る、黄蓋や韓当と共に袁紹軍の二強、顔良、文醜と対峙する、太史慈と一騎討ちをして引き分け、また孫堅の仇とも言える黄祖を打ち取るなど、華々しい戦果を挙げています。
重要なのは孫堅が伝国の玉璽を発見した際に、これを持ち帰るべき!という人物だということ。
また周瑜との正史でのエピソードからか、後年では病の中でも推して出陣しようとする周瑜を宥めるなど、決して血気にはやるだけの人物ではない描かれ方をされていることから、程普が武将として、そして一キャラクターとしてかなり高い評価を得ている人物であると言えるのではないでしょうか。
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程普の死因、病死か?それとも戦死か?
さてそんな程普の死因ですが、はっきりとしていません。周瑜が早世した後に南郡太守となったが、後に劉備との間で荊州分割の協議がなされると江夏に戻り、盪寇将軍に任じられた後に死去しています。この時期もはっきりと記されておらず、病死か戦死かも分かりません。
ただ「呉書」によると「癩病にかかり数百日後に死去した」という驚きの病死説が記されています。その一方で、孫堅に付き従い様々な戦に出陣したため、体のあちこちに傷を負っていた、という記録もあります。これだけ見ると病死説にやや傾きがちな情報が揃っていますが、その他の時代背景をいくつか重ねてみると、ある説が見えてきます。そちらを見て頂きましょう。
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様々な記録を組み合わせていくと、見えてくる一つの道筋
まず呉書宗室伝によると、孫皎が兄の孫瑜の存命中に程普の後を引き継ぎ、夏口を守備したという記録があります。孫瑜は215年に没しているので、215年には程普は亡くなっていたのでしょう。また程普自身「周瑜が早世した後に南郡太守となった」という記録から、周瑜の没時、210年にはまだ罪名だったと分かります。
この時点で、程普の亡くなった時期は210年から215年となります。
ここで出てくるのが魏書、蔣済伝によると209年に曹操は「淮南の住民を移住させたい」といって蒋済に止められているにも拘らず、213年に強制移住を開始、しかし淮水、長江付近に住む十数万の人々は孫権領に逃げ込んでしまい、後に曹操は蔣済に「賊を避けさせようとしただけなのに、かえって敵の方に駆り立ててしまった」と言ったという話が載っています。
更に呉書の全琮伝、これには孫権が210年以降に車騎将軍に任命されるとその長史に父親の全柔が任命され、その後に桂陽太守まで昇ったという記録があります。全柔が桂陽太守に上り詰めたのは210年以降、210年にそのまま駆け上がったとは考えにくいので、211年以降とすると……あるエピソードがここに加味されていきます。
繋いで繋いで、見えてくる歴史の断片と面白さ
全柔が桂陽太守になった後、息子である全琮は桂陽から呉郡に米を運んで売却する任務を負いましたが、全琮はその米を民に施してしまいました。全柔は怒りましたが、士人が苦しむのを見かねたためと謝る姿を見て、息子・全琮の非凡さを認識したというエピソードです。良い話ですが、なぜ施しがいるほどに士人は苦しんでいたのでしょうか?
ここで213年の曹操の強制移住が関わってきます。曹操の強制移住を嫌がって孫権領に逃げ込んだ数十万の民、急激な人口増加は食料不足を招き、更にそこから飢餓、疫病と負のスパイラルが発生していきます。
曹操の強制移住、全琮の施し、更に程普が亡くなったのが丁度この辺り……そう、曹操の政策により、孫権領に発生した飢饉、そこからの疫病の蔓延により、既に高年齢に達し、更には長年の戦で傷付いていた程普は病にかかりやすくなっており、ここから病死したとは考えられないでしょうか。
もしこの説が通せるとするならば、疫病の流行を考えて、程普の没年は214年から215年の頃まで絞り込めます。程普の病死の背景を追ってみた次第ではありますが、この説、どうですかね?まあ「だったら病死って記録されるんじゃないの?」とは思いますが、孫家の基盤を築いた名将が、流行り病で亡くなったというのは記しにくかった……という可能性もあり得るのではないでしょうか。
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三国志ライター センのひとりごと
……と、程普の病死説に長々と背景を想像しただけではありますが、様々な歴史書を繋げていくとこんな見方もできる、という一例です。
個人的にはこういう推察こそが歴史の面白さだと思っております。ぜひ皆さんも程普のみならず、様々な人物とその背景、そしてそれ以外の記録を繋ぎ合わせ、より深く歴史を見てみて下さい。
三国志、面白いですよ!どぼーん。
参考:呉書程普伝 周瑜伝 宗室伝 全琮伝 魏書蔣済伝
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