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[法正の影響?]黄忠が夏侯淵を討ち取った戦略の真実

2024年9月24日


 

 

黄忠(こうちゅう)のプロフィール

)漢升

ピン音)Huáng zhōng (英語・Huang zhong)

出身地)荊州・南陽郡

諡号)剛候

没年)220年

主君)劉表劉琮曹操劉備

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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関羽と互角の戦いを演じたエピソード

 

赤壁の戦いの後、劉備が荊州四郡を制圧した際に帰順することになる黄忠ですが、三国志演義では関羽との一騎打ちが脚色されています。勝敗は互角。最初は馬が負傷し落馬した黄忠ですが、関羽は乗り馬を替えるように促したために勝負は持ち越しとなります。次は弓に持ち替え関羽に対した黄忠はあえて射殺せずに、関羽の烏帽子を射ました。

 

黄忠が関羽に匹敵する武勇の持ち主であることを印象付けるエピソードです。読者にしてみればかなりのインパクトです。あの関羽が一騎打ちで引き分けることなど稀だからです。「こんな僻地にこんな凄い武将がまだいたのか・・・」という感じでしょうか。これが後に、新参の黄忠が「五虎大将」に選ばれることへの抵抗感を削ぐことに繋がります。

 

 

定軍山の戦いと軍師・法正(ほうせい)のフォロー

 

217年から劉備軍と曹操軍は漢中付近で戦闘を繰り返します。曹操軍では張郃が率いる部隊が撃破されたり、劉備軍では張飛・馬超の部隊が敗退したりするわけですが、両軍の勝敗を決める戦いになったのが、219年春の「定軍山の戦い」になります。

 

このとき、曹操軍の総大将は夏侯淵でした。夏侯淵は張郃と共に、攻め寄せる劉備軍に対峙します。三国志正史でも夏侯淵伝と黄忠伝ではやや筋書きが違います(夏侯淵伝では法正の名前が登場してこない)。三国志演義になると正史を下地にしながらさらに脚色が加わることになります。わかりやすいのは三国志演義でしょう。

 

 

 

夏侯淵が定軍山に陣を置くと、その隣の山を黄忠が奪取します。夏侯淵がこれに怒って攻め込むと、タイミングを見計らった法正が黄忠に合図を送り、黄忠が山を駆け下りて「逆落とし」で夏侯淵を討ち取るのです。

 

 

夏侯淵があまりに軽率すぎるのでは

 

しかしこれでは、歴戦の勇を誇る夏侯淵があまりにも戦を知らないことになりますね。

 

「夏侯淵って本当に強かったのか?」と混乱した読者もいたのではないでしょうか。正史の方ではどうだったのでしょう。定軍山の東を張郃(ちょうこう)が守り、南を夏侯淵が守っていましたが、東の張郃の部隊が苦戦したために夏侯淵は自分の兵の半数を援軍に送ったとあります。

 

ここでチャンス到来と見た法正が劉備に「今こそ夏侯淵を討つチャンス」と進言するのです。劉備に命じられた黄忠は山を登り、高所から夏侯淵の陣を襲い、見事に討ち取ることになりました。

 

半数でも守り抜けるという過信が敗北に繋がったといえばそれまでですが、自分の兵力を割いてまで張郃のヘルプをしようとした「夏侯淵の心意気」に対し、皆さんはどう感じますか?夏侯淵に「天晴れ」をあげてもいいのではないでしょうか。え?やっぱり「喝」ですか??曹操は夏侯淵に喝、法正に天晴れを与えていますね。それを考慮すると、黄忠が夏侯淵を討ち取れたのは法正のおかげだったということでしょう。

 

 

 

三国志ライターろひもと理穂の独り言「老黄忠の最期」

 

夏侯淵を討ち取るという功績をあげたとき、黄忠が幾つだったかはわかりません。けっこうな高齢だったようです。そこで中国では「老いてますます盛ん」であることを「老黄忠」と呼ぶようになりました。あだ名のようなものですね。日本だと「ひふみん」がこれに該当します。

 

 

 

正史であれば黄忠は220年に死去しています。定軍山の戦いのすぐ後のことですね。しかし三国志演義は高齢者を酷使しており、黄忠はさらに寿命を延ばされて221年から始まる「夷陵の戦い」にも参戦させられます。

 

そして劉備に「年寄りは役に立たない」と言われて、敵陣深く斬り込み重傷を負って亡くなることになります。まさに老黄忠の面目躍如といった演出ですね(高齢者への虐待ではない)。

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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