今回取り上げていきたい武将は郤正です。
郤正は蜀の末期から劉禅に仕え、そこから西晋まで生きた人物……ですが、とあるエピソードでの言葉が有名で、三国志で郤正が分からなくても、そのエピソードは知っていると言う人も多いのではないでしょうか。そんな郤正について、どんな人物だったかだけでなく、その生涯、そして死因までをお話ししたいと思います。
ぜひ、この機会に郤正について、深く考えて頂きましょう。
この記事の目次
郤正ってどんな人物?その出自と背景
郤正は劉禅に仕えていた人物ですが、若い頃から苦労をしていた人物です。父親は劉備が蜀を平定すると孟達に仕え、その孟達とともに魏に降伏しましたが、この父親自身は郤正は幼い頃に亡くなっています。その後、母親が再婚してからは一人で生計を立てていくようになり、厳しい暮らしの中で蜀に仕えることになりました。秘書吏となり、昇進を重ねて最終的に秘書令にまで至っています。
疑惑のお隣さんと、劉禅の評価
そんな郤正はあの有名な黄皓のお隣さんを30年ほどしていたようですが、特に気に入りも嫌われもせず、そのためか俸禄が過剰に増やされることもなければ、余計な中傷で官職を追われることもなく、真摯に国と劉禅に仕えることができたとも言えるでしょう。
彼が劉禅に注目されたのは蜀の末期も末期、263年。
劉禅が魏に降伏する際に、降伏文書を書いたのが郤正です。そして郤正は劉禅が洛陽に移送されることが決まると、家族を捨ててまでこれに付き従い、その後も度々劉禅の補佐をしていたのか、劉禅は落ち度なく魏で振舞うことができました。このことで劉禅は「郤正を評価するのが遅かった」と後悔したといいます。
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郤正の有名なエピソード、此れの意味する所は……?
そんな郤正の有名なエピソードが、正史三国志の注にあります。ある日、劉禅は司馬昭の宴会に招かれました。そこで蜀の音楽が奏でられると、古くからの臣下たちは涙を流しましたが、劉禅はにこにこ。
これをみた司馬昭は「人はここまで無情になれるのか……こりゃ孔明が生きてても駄目だな(意訳)」と思ったということを賈充と話す逸話が載っているのですが、ここで司馬昭が「蜀を思い出しますか?」と尋ねると劉禅は「ここは楽しいから蜀を思い出すことはありません」と返して、旧臣たちは唖然としました。
そこで郤正は「次に同じことを聞かれたら蜀を思って悲しまない日はありませんと返してください」と諫めたのですが、これはどうやら司馬昭に聞こえていたようで。同じ質問を劉禅にすると、劉禅は郤正の言葉通り答えたので司馬昭は「郤正の言った通りですね」と言って「その通りです」と答えた劉禅、一同大笑い……となるエピソードですね。
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郤正のエピソードに覚える違和感
さてこの郤正の話は後主伝の注釈、漢晉春秋によるエピソードですが、これは何だか違和感。内容的に考えると、三国志演義などでの演出からも「劉禅は何も分かってないよ!ひどい主だよ!」みたいな非難めいた印象を受けます。
しかしよくよく考えるとここで司馬昭相手に「蜀に帰りたいです……」なんて漏らしてしまったら、逆に危険視されないでしょうか?同時にこれが劉禅を謗る内容だとするなら、郤正伝にある「劉禅は郤正のおかげでそつなく振る舞えることができたよ!」という内容と矛盾しているのではないでしょうか?
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郤正の意図はどこにあったのか?
ここで郤正について、やや筆者の過剰なる妄想を膨らませていきたいと思います。郤正は劉禅のため、家族を捨ててまでついていった人物です。そこにはあくまで、劉禅への忠義心のみがあったのではないでしょうか。
蜀が滅んで尚、劉禅はその中心です、その気になれば、彼を旗印に戦を起こすこともできるでしょう。ですがその先に、劉禅自身の命は保証されません。
ましてや相手は皇帝すら弑逆した司馬昭です。寧ろ宴会で蜀の音楽を流したとするなら、それは劉禅を含めた蜀の旧臣たちがこの先どれだけ邪魔になる人物か、それを図っているかのようなイメージさえできます。
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郤正があくまで、劉禅のみの忠臣とするならば
敢えて郤正は劉禅が蜀には帰りたくないと言う自分の意思を見せた上で、図分の言葉をそのまま話すような人物と見せた上で、それでいて尚、司馬昭が「蜀を懐かしむ家臣に対して無情」と感じるように印象付けたのではないでしょうか。
そして劉禅があくまで自分の感情に正直なだけとするなら、それは何よりも劉禅という存在を守る盾となったでしょう。郤正は蜀の復興よりも、劉禅の命を一番に考えていたから……そんなエピソードが生まれたのではないかと、今回愚考した次第です。
尚、司馬昭はこの後エピソードがあったと思われる時期から、二年もしない内に亡くなります。
後継者の司馬炎自身は司馬昭より司馬攸以外の周囲に寛大である上で、劉禅は271年に65歳で死去。その六年後、郤正もまた、亡くなっています。
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郤正の死因
死因などは記載されていないものの、劉禅をとにかく穏やかに生きていられるように郤正が務めたとするならば、安堵と全うした思いでの生と死が訪れたのではないか、と思いますね。何より劉禅自身も己の行動を顧みるほど、郤正の忠義に気付いていたようですから。
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郤正と姜維との関係から見る、郤正の性格
さて最後に、ちょっと郤正から見た姜維について。郤正は姜維についてかなり好意的な論を残しています。
「彼は将軍となりながら質素で余財無く、俸給を使い尽くした。失敗した人は非難されるとはいえ彼の評価が改められないのは残念だ」
この中の「失敗した人は非難されるとはいえ」というのが、郤正の性格を良く表していると思います。姜維も、そして劉禅もまた、失敗すること自体が大きく非難される立場にありました。劉禅への後世の評価が厳しいのも、何より劉禅が蜀と言う国を終わらせてしまった、その代になってしまったということが大きいと思うのです。
しかし滅びるには滅びるだけの理由が、多くあります。婉曲で言うならば、そもそも先代の劉備が夷陵でびっくりするほど大敗北!していなければ、まだ蜀はどうにかなったのでは、と思いますが、それ自身は劉禅の与り知らぬことですね。それでも尚、滅んだ時代ということで、全ての責任が劉禅に覆い被ります。郤正はきっと、そういうことを少なからず「理不尽である」と思う人間だったのではないでしょうか。だからこそ、国ではなく、劉禅と言う一個人に仕えることにしたのではないかと、思います。
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三国志ライター センのひとりごと
郤正に関しては、本当に「遅かったなぁ」と思う人物でもあります。ただ郤正がもっと早く発掘されていたとしてどれだけ時代が変化していたのかと言うと、それでも大きく変わらなかっただろうな、というのが筆者の本音ですね。逆を言うなら郤正という人物は「劉禅がもっと早く評価していればと後悔した」ということに詰まっているのではないでしょうか。
少し物悲しくもありますが、そういう人物に最期の方にでも気付けたのは、ある種の劉禅へのすくいのように感じますね。どぼーん。
参考:蜀書後主伝 郤正伝
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